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読書録/クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国

クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国
若桑みどり著 集英社

 雑賀信行著「キリシタン官兵衛」の中で紹介されていて、興味を引かれて手に取った一冊。若桑みどりの著書はこれまで読んだことがなかったが、近江八幡市に合併前の滋賀県安土町がバチカンに送った調査団で重要な役割を果たされていたと記憶している。それは、織田信長が狩野永徳に描かせたという壮麗な安土城と城下の屏風絵の行方を追うもの。織田信長は、当時日本から派遣された天正遣欧少年使節にこの屏風を持たせ、ときのローマ教皇グレゴリオ13世に献上したのだ。

 本書は、その屏風を携えてローマを訪れ教皇との謁見を果たした天正少年使節を核として、その使節が派遣されるに至った経緯、使節が日本を出港してローマへ到着し、再び日本へ戻ってくるまでの8年の旅程、そしてその間に日本で起った激動とキリスト教の禁教へ至る道を描く。その記述は戦国時代の日本の状況のみにとどまらない。その当時、日本へ宣教師を派遣することになったイエズス会とそれをバックアップしていたスペイン、ポルトガルという世界帝国にうごめく様々な人々の思惑、そして日本にやってきたスペイン人、ポルトガル人、イタリア人宣教師それぞれの人柄と国情などを、バチカンに残された莫大な史料をもとに、あざやかに描き出していく。それだけではなく、戦国時代当時の日本に生きる、名もない市井の人々が、救いを求めて宣教師たちの示した愛の行為とイエス・キリストの福音にすがり、それを自分のものとし、救いによって得た自由をにぎって殉教の死を選び取って行く姿を、目の当たりにするように描き切っている。

 そのように、この時代に生き、時代を動かした人々ひとり一人を、生きた人間として生き生きと描いたことと同時に、本書にはもう一つ、私たちに投げかけられている大きな問いがある。それは、自由とは何か、今を生きる私たちは、果たして本当の自由を獲得し、自分のものにしているのか、ということである。

 キリスト教の伝来から禁教に至る歴史は、私たちが教えられてきた中では日本史の戦国時代の中のほんの数行の記述で済まされる程度の重みしか、与えられていない。しかし、それは世界史の二つの大転換期、「大航海時代」と「宗教改革」という大変革の波が日本にまで押し寄せてきた、という意味を持つ。そしてその当時、はじめて一部の東アジアよりももっと西に広がる世界の国々を日本は知り、グローバルな世界の流れの中に自らを置いて、その交流の中で自らを変革し、成長させていく機会が与えられたのだ。その中で派遣された天正少年使節は、単に4人の少年がローマに行って帰ってきた、というよりももっと深く、大きな意義があったことが、本書で明らかにされていくのだ。そして著者は問いかける。もし、この4人の少年を出迎えて、彼らから学んでいたなら、日本には明治維新より300年早く、文明開化を迎えていたのではないか、と。

 戦国の世は、私たちが身近に大河ドラマや時代劇で見るのとはまったく違った、悲惨な世の中だったことが、詳細な当時の記録を残した宣教師、ルイス・フロイスの記述からは伺える。裏切りや下克上によって、一国一城の領主は一夜にしてすべてを奪われることがあった。その領民たちはさらに悲惨である。乱世の中で振り回されていた庶民は、決して変わる事のない「つくりぬし」、創造主たる神の存在を知り、隣人愛を実践する教えを知ることによって、この国を支配している朝廷、武将、大寺院といった権力層から自由になり、自らの寄付と行いによってともに暮らしている貧しい人々を助ける「ミゼリコルディア(慈善組合)」を組織したという。そこに、今でいう「市民」の意識の萌芽があったのではないだろうか。

 「大航海時代」と「宗教改革」は、海の向こうの西洋で、イギリスという島国を劇的に変えた。イギリスに立憲君主制と議会民主主義が生まれるきっかけを作ったのは宗教改革であり、オランダから命を賭してもたらされた英訳聖書であった(当時、ラテン語の聖書を翻訳することは死罪だったから)。もしかしたら、そのような変革が、東の果ての日本という島国でも起こり得たかもしれない。実際、日本は明治維新を経て、立憲君主制、議会民主主義の国となりはした。しかし、250年に渡る鎖国の前に、私たちの国は「内心の自由」を持つことを禁じられたのだ。鎖国は解かれた。しかし心はどうだっただろうか。

 夢と希望に胸を膨らませて、長崎から出港していった4人の少年。彼らが帰国した後待ち受けていた運命を、私たちは知っている。その運命がもたらした結果と、彼らが日本にもたらずはずだったものの大きさを思うとき、胸がしめつけられるような思いになる。

 著者の若桑みどりさんは、2003年に本書を出版したのち、2007年に逝去された。まさに渾身の、ライフワークと呼ぶにふさわしい一冊である。膨大な読書量と史料研究に支えられた歴史書だが、まるで一つひとつの場面が映画のように、豊かな筆致でもっていきいきと描かれていて、飲まれるように、一気に読むことができた。歴史について考えさせられるだけでなく、感情が揺さぶられる。読み終わったあとには、知的な興奮と4人の少年に訪れた悲劇的な最後への涙、そして大きな激動のドラマに揉まれたあとのような虚脱感に襲われた。でも、もう一度手に取って、お気に入りの場面に入り込んでみたくなる。また、投げかけられた大きなテーマの一つひとつに、日々思いをめぐらすこともまた楽しい、希有な一冊である。

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