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読書録/容赦なき戦争ー太平洋戦争における人種差別

◼️容赦なき戦争ー太平洋戦争における人種差別 
 ジョン・W・ダワー著 猿谷要監修・斎藤元一訳(平凡社ライブラリー)

 もとは1987年に日本語版が出版されたもので、私が手に取った平凡社ライブラリー版の出版(2001年)からでさえ、すでに19年が経過している。最初の日本語版が出たときには日米貿易摩擦による「ジャパンバッシング」が起こっていた。2001年には、9.11同時多発テロが起こった。そして、手に取った2020年、新型コロナウイルスの世界的流行が起こり、その発生源が中国だったことから、リアルタイムで「人種差別」へ人々が偏っていく瞬間を目の当たりにした。そんな中でこの本はひときわ「重く」感じられた。だれもが目を背けたくなる事例を一つひとつ取り上げながら、太平洋戦争時に、日米の双方で、どのような人種差別が行われ、表現され、そしてそれが何をもたらしたかを検証したのが、本書である。

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 戦時にはときに、兵士による残虐行為が見られる。太平洋戦争時に、アメリカ軍の兵士が死んだ日本兵の骨でナイフを作って故郷の恋人に送った、などの有名な話もある。日本軍が英米の捕虜に十分な食料を与えず強制労働をさせて建設した泰緬鉄道の話は「戦場にかける橋」として映画化された。太平洋戦争以前の話になるが、日中戦争時に発生した南京事件では、日本軍が捕虜や一般市民を虐殺、暴行するなどの非人道的な行為を行なった。
 こうした行為に及ぶのは、たいてい、ごく普通の兵士たちである。もし戦争でなかったら、人を殺すなど思いもしなかった人々が大半だろう。では、一旦戦闘行為に手を染めてしまうと、タガが外れたようになってしまうのだろうか。なぜ、普通の兵士たちが、あのような残虐な行為に及んでしまうのだろうか。その背景に何があるのだろうか。
 こうした疑問について、著者は第二次世界大戦における太平洋地域での戦いと、欧州で繰り広げられた対ドイツの戦いとの様相の違いに注目した。日本との戦いで見られた残虐行為が、ドイツとの間にはあまり見られなかった要因として、人種差別があるのではないかと考えたのである。

 そこから、著者は太平洋戦争においてアメリカと日本の双方が、敵についてどのようなプロパガンダを行い、そこにどんな人種差別があったかを、一つひとつの事例を取り上げながら、読み解いていく。アメリカにとって、日本人は黄色人種であり、そのイメージは「猿」として表現された。また戦闘は「害虫駆除」と捉えられた。人間ではない生き物で、一人ひとりの個性のない、虫のような集団。そのような捉え方が前提としてあったなら、目の前の日本兵を害虫のように駆除することに、さほど逡巡しなくてもよかった、ということがあったのかもしれない。
 一方、戦時において行われた国民性研究によって、日本人は幼少期の用便のしつけが厳しいことがトラウマとなり、異常に強迫的な特殊な精神構造を持つに至った、という分析が登場し、幼稚で未熟で、感情的な疾患を抱え常に不安に悩まされている「集団的神経症」に陥っている、といったレッテルを貼られた。このような箇所を読んでいると、それが的確な分析に思えて非常に重苦しい気分になったのであるが、こうしたことさえも、実は人種的な偏見が大きく関わっていることがのちにわかる。というのは、こうした捉え方は、日本人以前にアメリカがフィリピンと戦争したときの「敵」に向けられた分析であり、太平洋戦争後には共産化して新たな「敵」となった中国へとスライドしていくことになったことが明らかにされるからである。

 では、日本人はアメリカに対してどのような人種差別的プロパガンダを行ったのか。それは言わずと知れた「鬼畜米英」という言葉に表されている。敵とはいえ、明治初期には文明開化の教師だった欧米人を、アメリカ人が日本人に対してしたように、猿や虫などの非人間的な存在に置き換えることはしなかった。そうではなく、邪悪な鬼という存在とみなし、自らを鬼退治をする桃太郎のような、清浄な存在へと高めることで「敵」への憎悪を大きくしていったのだという。
 この「鬼」には、桃太郎において成敗されたあとの鬼は邪悪な行為をやめることを桃太郎に誓わされた、という民話のパターンが存在した。著者は、このことが戦後日本が驚くべき早さで敵国だったアメリカの友好国になったことの心理的背景にあると考察している。成敗された「鬼」はもはや敵ではない、というのである。
 もう一つ、日本においては「敵」を侮蔑的に表現し貶めること以上に重視されたのが、自らの「優秀さ」「血統のすごさ」「清浄さ」を国民に知らしめることであった。天皇のもとに世界を統一し、日本が指導民族としてすべての民族の上に君臨する、という「八紘一宇」の構想のためである。
 ここで、人種・民族をピラミッド型に階層化したことで、下層に位置付けられた中国、朝鮮やインドネシアの人々に対する激しい差別と強制労働、虐待などが引き起こされるに至った。普通の兵士たちが戦時に残虐な行為に走る背景には、このように、プロパガンダによって刷り込まれた意識が作用していたということは、否定できないのではないだろうか。

 こうしてみると、太平洋戦争の終結から75年を経過して、戦争の記憶が薄れてしまったいまでも、感情としての人種差別はいまなお生き続け、亡霊のように、次の戦争、次の混乱の中に姿を表しているように感じられる。太平洋戦争のとき、アメリカ人は「よい日本兵は、死んだ日本兵だけだ」と言った。ベトナム戦争のときには、それが「よいベトコンは、死んだベトコンだけだ」と変化した。
 日本においてはどうか。外国人技能実習制度で来日して勤務する企業で、戦前戦中の労務者が遭ったような虐待、暴行を受ける外国人研修生があとをたたない。その背後に、かつての戦争のときに培われた、「日本スゴイ」と人種により階層化された世界観が、まだ生き続けてはいないだろうか。
 そうだとすれば、本当の「敵」はどこにいるのか。私たちはおぞましい、自らの心の闇を直視する勇気を持たなければならない、と思った。

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