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水戸光圀

水戸光圀が歴史上偉大な人物で、大日本史を編纂したと教科書で習ったが、詳細はわからない。

TV では葵の印籠を振り回し、茶番劇を繰り返す変なじじいとの印象しかないが、水戸から出たことのない人がこんな扱いを受けるとは変だとは感じていた。

平泉澄の物語日本史を読んで、水戸光圀の人物像の違いに愕然としている。

水戸光圀は徳川家康の第十一子、徳川頼房の子である。六歳の時に兄を超えて家の後継になったそうだ。
このことが後の光圀の、歴史を正しく認識する必要性を政策として構築していくことの引き金となった。

偽りのない歴史を保持することの大切さを実感し、十八歳の時から準備を始め、古い書物を集め出し、後に彰考館と名付けられた修史局を開設した。
後世のために真実の歴史を明らかにすることを目標として、藩を上げて立ち向かい、人見卜幽、佐々宗淳、丸山可澄、鵜飼錬斎、力石忠一、安積澹泊、安藤年山、栗山潜鋒、三宅観瀾など優秀な人材を採用、光圀没後は朱舜水、契沖の協力を得た。

さてその研究法は、方々に人を派遣して、古書旧記を集め、重要な書物は、その写本をいくつも集めてこれを突き合わせ、文字に写し誤りがあるか、ないか、いちいち調べてゆくという、きわめて科学的な、忠実な方法がとられました。例えば太平記などは十種類の異本を突き合わせ、ほかの記録と照らし合わせて(中略) この科学的な研究法は。有名な清朝の校勧学よりは一足早く始められたもので、いわば光圀の独創と言って良いでしょう。

物語日本史(下)平泉澄

こうして光圀が全精力を注いで作り始めた『大日本史』は二百六十二年かかって完成した。
何一つ、想像による記述は許されず、事実に基づいたことのみを記載されたことがわかる。

この大事な大日本史があまり重要視されていないことが気がかりであったが、理由が分かった。

今一つ重大な問題があります。それは我が国の創立者は、シナから来たので、つまり皇室のご先祖は、呉の泰伯であるという妄説があって、林羅山の子、鵞峰もこれを信じていたらしく、寛文六年に作った東国通鑑の序にそれを明記しています。(中略)本朝通鑑を作った時にも、この説から書き始めたのを、光圀これを見て大いに驚き、すぐに注意して書き直させたといいます。

物語日本史(下)平泉澄

この記述があったから、水戸光圀が貶められているのだと悟った。
自虐史観の戦後教育に問題があったのだ。

少し、考えれば理解できることだが、征服王朝の王は被征服国を徹底的に武力解除し、文化も自国文化を持ち込む。中国の呉王が、全く成り立ちの違う日本の言語や習慣を身につけて統治したなどという説はあり得ない。

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