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豊臣秀吉

独断

信長がキリシタンに爆殺されたあと、明智光秀は急遽京都に戻り、武器調達のルートの収拾を図った。

明智光秀を排除して武器調達ルートを確保すれば天下を取れると判断した秀吉は、短時間のうちに、光秀を信長殺害の犯人に仕立て上げ、抹殺した。

どうして「キリシタンが信長を爆殺した」か、と考えるのは、爆弾を作れる上品質の硝石を持っていたのは宣教師達だけだったからだ。爆弾を作るには即発性の火薬が必要だ。鉄砲用の火薬は品質の悪い遅発性の火薬でないと銃身が破裂してしまう。

茶席は、宣教師や奴隷商人と取引のある大阪堺商人との取引の場であったので秀吉も茶席のつながりを必要とした。

千利休のゆかりの地といえば、大阪府の堺市を思い浮かべる方も多いと思いますが、京都にも様々な千利休のゆかりの地があります!
今回は、京都府での千利休のゆかりの地「大徳寺」(だいとくじ)を紹介します。

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そこで秀吉は千利休を利用することにより武器(主に火薬など)を調達することができた。
その上で、茶会席を何度も行い、各地の大名に火薬は秀吉が独占したと認識させ、反乱を起こさせないために検地、刀狩りを始めた。

天下統一を果たした秀吉は、利休と、各地の大名とが連絡を取り、勝手に火薬を調達することを怖れ、利休を切腹させた。

利休の切腹の原因だと一般に言われている、利休座禅像が大徳寺にあるとの記事があったので、大徳寺も調べてみたくなった。



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