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死んだ信長光秀を殺す

古事記、日本書紀を読みこむほど、どれが真実かわからなくなる。

栗本慎一郎著の『パンツを履いた猿』にあるように、アフリカのドゴン族は嘘をつかないので文字を持っていない。

古事記も、稗田阿礼が口述している間は嘘がなかったと思われる。嘘を言わなければならなくなった時に文字の必要性が生まれた。

日本書紀と古事記の間には埋めることができない相違が記載されている。

時の権力者が、自分の正当性を主張するために、史実を捻じ曲げて記載させたことは明らかである。

同様に、未だに信長は誰に殺されたのかわからない。

仮説では明智光秀ということになっているが、とても実現不可能なことである。

こういう時は、誰が得をしたのかを検証すると見えてくることがある。

不思議な人物が出てきた。

秀吉の子飼いで小野木縫殿助250石という人物がいる。突然、30000石の福知山城主になる。秀吉が死ぬとすぐに、小野木縫殿助は細川幽斎によっておびき出され斬首されている。

ここに秘密がありそうだ。

明智光秀はどのような地位にいたのか、

元亀元年正月二十三日足利義昭と織田信長の文書に代理人として、織田信長の天下布武の朱印の上位に明智光秀の名が記載されている。

この時点で明智光秀と織田信長は、対等か光秀の方が上位であったことがわかる。

頭の中を、史実として理解できるように並べ替えると、

滋賀県に勢力を持ち、比叡山の麓の坂本城にいる明智光秀が、信長にとって頼りであり目障りでもあった。

当時のポルトガルとの貿易をしていた、堺衆筆頭の津田宗及とつながりのある明智光秀は、鉄砲火薬の入手が可能であり、実行していた。また、比叡山にも横流ししていた疑いもある。

堺を抑えている信長は今井宗久から、鉄砲、火薬を手に入れていたが、全ての鉄砲火薬を押さえる目的で、明智光秀に納品している津田宗及の分も手にに入れるべく画策した。

その為、光秀を遠征させておいて、わび茶の今井宗久、津田宗及を茶頭として、本能寺において茶会を開いた。

全ての、鉄砲火薬を信長によこせという要求が出された茶会である。事前に信長を焚きつけておいた秀吉と家康は距離を置いていた。

実際に、信長が全ての鉄砲、火薬を手に入れると、秀吉、信長にチャンスはなくなるので、予てからの計画通り、茶会の翌日、光秀の仕業に見せかけて信長を殺す計画を実行した。

光秀の勢力は13000人と言われるが実際の手勢は、坂本の3000人だ。名目上所領の福知山は秀吉の妻ねねの親類の杉原家次である。

秀吉は杉原を丹波衆として出撃させ、光秀の謀反に見せかけ信長を打ち取った。

光秀がこのカラクリを見破って、秀吉を討伐すれば、待ち構えていた家康が光秀に向かう構図だった。

しかし秀吉の計画が思いのほかうまくいってしまったので、丹波衆として杉原を処分し、小野木縫殿助に福知山城30000石を任せた。

秀吉が死んだ後、小野木縫殿助は信長の友人である細川藤孝(幽斎)に殺された。

理解しやすくなったので裏付けをして行こう。










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