エヴァの呪縛に憑りつかれたばかりの高校生が、シン・エヴァンゲリオンを2週した話

初めてのルーヴルは なんてことは無かったわ 私だけのモナリザ もうとっくに出会ってたから

この一節を初めて聞いた時の衝撃は、今でも忘れられない。他者への愛を紡ぐ言葉は、何千年も前から様々な表現が練られ、積み重ねられてきた。もはや人の想像力の中では出尽くされたのではないかとも感じる2021年に、このような言葉が創造されるのは、何とも凄まじいものだと思う。

もとより二足歩行ロボットものに興味を持てなかった僕がYouTubeでシン・エヴァンゲリオンの予告編を見て、そしてOne Last Kissを聞いてから約2ヵ月。旧アニメ、旧劇、新劇3作を一気に視聴し、つい先日シンの2週目をしてきた(コロナがなかったら既に4週はしていたかも)。そうして笑えるほど「エヴァ」の世界にどっぷりハマってしまったわけだが、ここで一つ、宇多田ヒカルさんや庵野秀明監督のような独創的な表現でない、所詮月並みな言葉であれど、一つ自分の思いを文に起こしてみようと思い立った次第だ。

元々エヴァに一切興味がないわけではなかった。というのも僕は自衛隊ファンでゴジラ映画ファンだった。そんな自分が初めて劇場で見たゴジラ「シン・ゴジラ」の監督の代表作という、しかも自衛隊要素もそこそこあると聞いて、まあいつか見るのもいいかもしれないなどと思いながら、旧作をNetflixのマイリストに入れていた。

そのエヴァが、完結する。後でネットの反応を見て知ったが、やはり皆「最後」というのには惹かれるらしく、せっかく最後なんだから劇場で見たい、そう思ったのは僕だけではなかったらしい。それが国民的人気ともなればなおさらだ。

しかし、どうも調べた感じエヴァは話がめちゃくちゃ長いらしい。90年代に放映された旧作と、2007年から始まった新作があるらしく、旧作はTV26話とそこからの分岐ルートの劇場版があり、でも総集編もあり、新作と旧作はつながりが基本なくてでも繋がりが示唆されてたり・・・と、長いわややこしいわ。見ようか否か、なんとも決められずにいた。

そんな時、僕は恐らく人生最良の選択をした。One Last Kissが前面に打ち出された、このシンエヴァ予告編を見たのだ。

「残酷な天使のテーゼ」以外の曲を知らなかった自分は、てっきり最新作もあの曲が主題歌なのだと思っていた。もしそうだったら、僕はエヴァを見ていなかったかもしれない。

バトルアニメらしさのある、迫力と力強さのある曲ではない。恋愛映画にあるようなメロディーと歌詞。白い氷山のようなものを割りながら浮かび上がる戦艦、厳つい機関銃を振り回す赤いエヴァ。大きな槍を持って戦う紫色のエヴァ。その後ろに流れるのは、優しい宇多田ヒカルの声。

結局、その勢いのままAmazonPrimeで「序」を見て、そのまま破、Qまで見てしまったわけだ。

戦うエヴァとNERV職員。登場人物の持つそれぞれの信念と葛藤。作中に散りばめられた謎。その全てが僕の趣味趣向に突き刺さった。要は完全な食わず嫌いをしていたわけで、ここまで後悔したこともない。そうして瞬く間に3作を見終わり、そのままのテンションで劇場にダッシュした。

何がそうも良かったのかと言われれば、僕が何よりも先に上げるのは「謎」だ。作中に謎が散りばめられている作品は、その単語を聞いているだけでも楽しいし、考察するのはもっと楽しい。それは多分、謎を解くという行為が、何よりも自分を作品の世界に引き込むからだろう。

さらに言うなら、僕は重い、鬱展開を迎える話がとても好きだ。感情移入すればするほど感じられる、自分の心を抉り取られていくあの感覚に、いつからか自分は虜になっていた。オタ友人に話したら割と素で引かれたりしたが、まあ辛い食べ物とかも好きだし、根っからそういう趣味を持っているということなのだろう。

だが、そんな話を作ること。これは本当に難しい。兎にも角にも、読者視聴者をその世界にプラグ深度四桁レベルまで引き込み、キャラクターに感情移入させなければならない。ただキャラをたくさん死なせるとか、そんなものではいけないのだ。そして、それができているからこそ、エヴァはあんなにも面白く、辛く、心を掴んで離さない。

エヴァの大人はあまりにも理不尽だ。僕は運のいいことに、世間で問題とされるような、矛盾や理不尽を子供に与える大人にはこれといって出会ったことはない。そんな自分でも、14歳で世界の命運を押し付けられて、命を懸けて戦う少年少女に共感できる。一つ一つのセリフが、情景が、全くのフィクションの少年少女にリアリティと親近感を持たせてくれる。エヴァの登場人物に降り注ぐ不幸、理不尽と、現実を生きる我々が遭遇するそれには、根のところに共通点があり、エヴァはその共通点を余すとこなく掬い上げる。それが、あれほどまでの感情移入を創り上げているのだろう。

一方で、その共感は子供たちに向けたもののみではない。大人もまた、自分たちがしなければならないことに対する、してしまったことに対する、自分に対する、自分の大切な人に対する葛藤が渦巻いている。まだ大人ではない僕にも、その姿にのめりこむことができた。一番好きなキャラクターが葛城ミサトなのも、多分そういうところからだろう。
エヴァは観客を引き込むと言う点であまりにも上手い。無論、それだからこそエヴァはここまでのヒットを記録したのだろう。

そうして映画3部作の中で、彼らは様々なものを失っていた。苦難の末にようやく何かを得たと思ったらすぐに失ってしまう。主要メンバーの大半は、3部作の中でそんな経験をした。それは彼らの心を、そして視聴者である僕の心を抉る。さらに、3作のうちに世界の謎はこれでもかというほど積み上げられた。これをどうやって終わらせるのか。この積み上げは、如何にして畳まれるのか。僕は「終わり良ければ総て良し」という言葉を終わりが良くないとこれまでも無駄になるということを言いたいのだと解釈している。

劇場を出たとき、それが全くの杞憂だったことを悟った。シンエヴァは端的に言うなれば「救済」の話だ。キャラクターだけではない。あの劇場にいた視聴者全てを、入り口は巨大なのに、奥はあまりにも深く戻れない、そんなエヴァの世界から抜け出せなくなった人間を救い、外の世界に送り出すための作品。まさに「エヴァの呪縛」と言うに相応しいそれから解放することが「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」だった。
ストーリーの詳細を語ればそれだけで記事一本分になるし、恐らく書いたところで目新しいことが書けるわけでもない。なのでここでは、とにかくOne Last Kissの話に留めたいと思う。
物語に主題歌を付ける時、当然ながらその曲はその物語に合っているものでなければならない。いくら素晴らしい曲だからといって、仮面ライダーにウルトラマンの主題歌を付けても訳がわからなくなるだけだ。
初め僕がエヴァに持っていたイメージと、One Last Kissのそれは全く違うものであったと言っていい。
エヴァの曲と言えばやはり「残酷な天使のテーゼ」だろう。あの曲から話の内容を想像すれば、おおよそは王道的なロボットアニメでありながら、単純な勧善懲悪ではない、といったところだろう。最も旧作は王道でないどころの話ではないのだが、これは後述することとしよう。
とにかく、One Last Kissの曲調からイメージさせるのは、少なくともロボットアニメのそれではなく、どちらかといえば恋愛映画のそれだろう。そんな曲がなぜエヴァにあれほどに合うのか。
その答えは単純だった。エヴァは「恋愛映画」だっだのだ。

新劇場版においてもカップル、パートナーの関係性を持つ2人、というのは多く出てくる。そしてそれが恋愛的なものであれ、家族的なものであれ、それこそが「エヴァ」の本質であり、故に愛を歌ったこの曲は「エヴァの曲」たりえるのだ。

シンエヴァで碇ゲンドウの独白を聞き、僕はこれを確信した。エヴァとは何を投げかける物語で、なぜOne Last Kissはエヴァの曲たりえるのか。上映中にそれを理解した自分が、物語のラスト、マリとシンジが手を取り駅の外へ駆け出すそのシーンで流れたOne Last Kiss を聞いた時の感情は、悲しいが自分が持ち合わせた言葉で表すのは不可能だ。

しかし、本当の衝撃はまだ先に

ここまで新劇場版についての感想を書いていて、改めて僕が好きなエヴァは何か、というのを自覚した。

新劇場版4作を一気に見てエヴァの虜になった僕は、次にNetflixを開いた。旧作、旧劇場版を見るためだ。
シンエヴァを見てわかったのは、どうもシンエヴァは旧劇との繋がりもあるらしいということだ。友人にも旧作を見てから見るとより楽しめるという話を聞き、では見てみよう・・・となった。なんとも当然の帰結だが、しかし旧作はアニメ26話と1.5時間の映画で構成されている。とりあえず一日一話ずつ見ていたが正直、見始めたときは上映期間中に全話見ることができるのかと思っていた。

気が付いた時には、旧劇の再生ボタンを押していた。貴重な休日をほぼ全て費やして、16時間近い旧作をすべて見てしまった。
面白い、もう一話、もう一話・・・といって全話見てしまったという経験は何度かあるが、基本的に30分アニメを連続で見る体力すらないような人間であるため、疲れも忘れるほど面白いものでないとこういうことは起きない。つまりは、それほどの話であったということだ。

さて、旧作を語る前に一つ触れておきたい作品がある。「Serial experiments lain」だ。

1998年に深夜アニメとして放送され、その後小説、ゲームなどの媒体で展開された、メディアミックス作品の先駆けとされる一作。ジャンルで分けるとすればホラーが妥当だろうが、この作品の怖さは決して心霊のようなそれではない。

lainという作品の何たるかを語るのはエヴァよりも難しいし、そもそも僕はゲーム版のプレイ動画を見ただけで、アニメ版は半分ほどしか見ていない。20年以上前の、それもメジャーとは言えないアニメであれば、見る方法も限られてしまう。前にニコニコ動画で行われた一挙放送で見ようとしたが、作品の恐ろしさに6話でギブアップしてしまい、そのままタイムシフト期限が切れてしまった。
そんなlainをなぜエヴァの感想に持ち出すのか。それは、エヴァとlainは、奥底で強い共通を、「人とは、自分とは、他人とは」という共通のテーマをもっているからだ。
主人公の玲音は終盤、この問いに対してある結論を持つ。その答えは、20年前のアニメからもたらされたとは思えないほどの新鮮さ、斬新さ、そして恐ろしさを感じさせた。これを読んでいる人はlainを知らないかもしれないので詳細はぜひ作品を見ていただきたいところだが、その結論はとんでもないものでありながら、どこか「共感できる」のだ。こんな作品に出会えることは今後はないと思っていた。エヴァを見るまでは。
もちろん、旧アニメの中にあるキャラクターの葛藤もまた作品として非常に面白い。特に惣流アスカの心情のそれは、エンタメの枠を超えてリアルの人間に訴えてくるものがある。しかし、それでも自分はなにより、lainと同じ衝撃を与えてくれた「Air/まごころを、君に」が好きなのだ。

「気持ち悪い」これ以上に、あの作品を表現する言葉はこの世にない。旧劇はいわゆる「トラウマ作品」だ。グロテスクに捕食される2号機や、綾波を取り込み巨大化したリリス。LCLに還元される人類。そして「人類補完計画」の思想。すべてが恐ろしく、理解できない。
しかし、自分はこの恐ろしい話を、なぜか何回も見返してしまう。その理由に、僕は最近気が付いた。僕はこの作品を「理解」し始めているのだ。

旧劇を何度も見返していると書いたが、別にすべてを見直しているわけではなく、見たいシーンを選んで視聴している。そのシーンは、リリスが綾波を取り込むシーンから、初号機が生命の樹となるシーン、そして、人類補完計画が発動され、「甘き死よ、来たれ」が流れるシーンから、補完計画が否定され、リリスが破壊されるシーン。どちらもトラウマシーンとして名高いところだが、事実僕はこのシーンばかりを見返しているし、最近の作業中にかける音楽はほとんど「甘き死よ来たれ」だ。
しかし、僕はもうこのシーンを見て怖いとは思わなくなってきた。それは慣れたからではない。自分でも恐ろしいと思うが、僕はこのシーンを「美しい」と思ってきているのだ。
理解できないはずのものが、理解できていく。これがとても恐ろしいことであることに僕は気が付いた。そして僕は、旧劇を理解してきている自分が理解できなかった。
自分自身でさえ、自分の行動や感覚を完全に理解できない。まして他人など理解できるはずもない。理解できないことは恐ろしい。故に、そこにある垣根を壊そうとする。つまりはそういうことなのだろう。

僕は自分の中に「理解できない自分」がいることを知ったことで、エヴァ旧劇のテーマを、理屈だけで理解するのではなく、心として理解できたような気がしている。こうもなってしまえば、多分僕はもう、エヴァの呪縛から逃れることはできないのだろう。

EVANGELION:3.0+1.01を見る前に

何の計画性もなくただただ書きたいことを書いていたら、ずいぶんと長い時間PCに向かってしまっていた。書きたいことはまだまだ脳内に眠っているような気もするが、ひとまずこれでこの長ったらしい感想文は終わりにしたい。
ところで、僕は今この文を「EVANGELION:3.0+1.01」を見に行く道すがら書いている。終映も迫り、もう見に行くこともないだろうと思っていた矢先のサプライズだった。近くの劇場はもう夜中の上映しかなく、少しばかり遠出をして観に行くことにした。
座席を予約しようとHPを開くと、ほとんどの座席が埋まっていた。田舎民の僕はこれまで、予約段階で劇場がほとんど埋まっているのを見たことがなかった。どいつもこいつも、呪縛に囚われすぎである。
熱しやすく冷めやすい僕がいつまでエヴァにハマっているかはわからない。だが、少なくとも、いつか熱が冷めたとて、エヴァが僕にとって「忘れられないこと」であり続けるのは間違いない。

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