「わかりやすさ」に呪われないために
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最近、いくつかの雑誌や新聞から「メタバースってどういうものですか」という取材を受けたことがある。すると私は「メタバースの定義は特に学術的にはないが……要件的には主に以下のようなものが挙げられており……」等と簡潔に説明をするのだけど、大抵はこう返されてしまう。
「すみません、もう少しわかりやすい言葉で話していただけますか?」
なるほど、確かに自分の言い方も悪かったのかもしれない。そう何度か言葉を変え説明しても、話はずっと平行線のままだ。あぁなるほど、そう察した私は最終的に
「メタバースはMetaも気合をいれてるし、めっちゃすごいものです」
ぐらいの抽象的な説明をすると(さすがにもうちょいマシな説明はするが)、相手も納得してもらえる。そういうことが何度もあった。
自分はメタバースの専門家ではないし、それこそClusterの加藤直人さんならもっとうまく説明できるのかもしれないけど、一般的にいう「わかりやすい言葉」を突き詰めていくと本質からどんどん外れてしまうような感覚を覚える。
メタバースに限らず、昨今の国際政治にしろ、経済問題にしろ、スポーツにしろ、それらを「わかりやすく」した結果、事実と全く異なるデマが当たり前に流出している。「わかりやすさ」なんて呪いのようなものだな、とすら思う。
そもそも、「わかりやすい」とは何だろう。衒学的な言い方を避けるとか、壮烈厳粛な用語を改めるとか、そういった努力は必要だろう。あえて事実を複雑に、「わかりにくく」伝える人間も確かに存在する。そういう人に「もっとわかりやすくしろ」と思うのはもっともだ。
けれど、いくら伝える人間が努力をしたところで、そもそも複雑にできた事実を簡単にできるわけじゃない。メタバースにしたって、過去にどんな事例があるとか、識者はどんな定義づけをしているかとか、そうした膨大かつ複雑な事実が「伝える前」に存在している。
世界は決して「わかりやすく」できてはいない。「わかる」というのは本来、極めて困難なのである。学問という努力が問われるのである。
「わかりやすさ」を安易に求めるのは、世界がわかりにくいものだという事実を軽視している。しかも多くの人は、自分が軽視しているとすら自覚していないし、むしろ自分たちが事実を選り好みしていることさえある。先程のメタバースにしても、「わからない」というのは建前で、本音は(カネの生生しさなどを)「”わかりたくなる事実”を出せ」というのが本音だと思う。
だからもし「わからない」場合は、「わかる」「わかりたくなる」ようになるまで事実を切断し、溶接し、原形をとどめなくなるまで加工し続ける。それこそが「わかりやすい」ものであって、他は「わかりにくい」どころか「間違っている」と否定する。
「わかりやすさの呪い」とは、我々が事実を理解しよう、事実を伝達しようと努力することではなく、むしろ事実の側を我々が理解できる、伝達できる形になるまで加工することに本質がある。
要するに心理学でいうところのヒューリスティックなのだけど、インターネットとスマートフォンを通じて情報が氾濫・加速する現代社会にあって、この「わかりやすさの呪い」が無尽蔵に量産され、蔓延してしまう。
それこそ某掲示板の開設者がYouTubeで雑談をしているうちはともかく、マスコミが積極的に番組や紙面で使い、挙句の果てに行政ですら活用する例まであるのは、この呪いの深刻さを表している。ネットユーザーのみならず、彼らにコンテンツを提供する側のマスコミまでも「わかりやすさ」に呪われている。政治家や公務員ですら「わかりやすさ」に依存している。
特にそれがメタバースのような新しい概念、ビデオゲームのようなあまり尊重されない概念、その他、社会的なマイノリティにあってこの「呪い」は一層深刻だ。
「わかりやすい」情報で飽和する時代にあって、既に情報は一種のコモディティであり、聞き手は「わかってあげる」という態度でいくらでも情報を取捨選択できる立場上、マイノリティが「わかっていただく」という下出にどうしても出てしまう、構造的なギャップがあるからだ。もはや「わかりやすさの搾取」である。
(この点に関して、自分が今出演させていただいているTBSラジオの『アフター6ジャンクション』は演者、スタッフの方の多大な理解と尊重により、必要以上に「わかりやすく」話さず、本質的な話ができる極めて貴重な番組です。)
もちろんこれは大いに自戒を含む持論である。自分も「わかりやすさ」を心の底では求めているだろうし、自分の発言や記事にしたって多少なり呪われていると批判されても否定できない。そもそも、人間の認知に根差し、ネットの潮流で拡散した「わかりやすさの呪い」を、今さら祓うことなど不可能なのかもしれない。全ての人に学問の努力や素養を求めること自体、現実的ではないのだから。
恐らく現代社会でこの「呪い」から逃れうるのは、研究と創作の世界かと思う。とはいえ、彼らにも生活がある以上、常に逃れうるとは限らない。実際、自分も研究者やクリエイターの方と話す上で、「わかって」もらうための努力、いや犠牲について生々しい話を何度も聞いた。
では、私を含むメディアの人間はこれからどう伝えるべきだろうか。
批判を覚悟で持論を述べると、「わかりやすさの呪い」を私は否定しない。メディアである以上、伝わらなければ意味がない。伝わらないことを嘆き、周囲に改善を求めることも現実的ではない。だから、その「呪い」を引き受けることを覚悟したうえで、研究者やクリエイターが求める「わかりにくさ」を引き出す努力をしたい。
消極的かもしれないが、現実的な道として、私は少しでも「わかりやすさ」と「わかりにくさ」の黄昏に生きたいと願う。
(実は書いている途中に似たタイトルの武田砂鉄さんの本を発見した。文章を読み比べていただければ(文体、内容からして)相違する部分も大きいし、その前に池上彰さんも同じような本を出して武田さんが批判していたりするので、このまま公開した。ただ似たような問題意識は少しずつ広がってるのかもしれない。)
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