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E3が中止された本当の理由

ゲーム業界に激震が走った。「E3」こと「Electronic Entertainment Expo」が、今年中止されることが発表されたのだ。

E3は1995年に始まり、現在も最も注目されるゲーム見本市だ。広大なロサンゼルス・コンベンションセンターを貸切って大々的に行うのはE3ぐらいで、世界からおよそ7万人が詰めかける一大イベントだった。日本からも多くのゲーム企業が出展し、ゲームメディアの取材も多かった。それだけにE3の運営が自主的に中止を選んだことは、ゲームの見本市の存在意義が大きく問われる一大事件と言えるだろう。

ではなぜE3が中止されたのか。多くのメディアやタイムラインを見る限り、元々E3の求心力が失われていたことや、任天堂らが実会場ではなくオンライン上で動画を介した発表で関心を集めていること、またE3関係者が情報をリークしていることなどが、中止の主な理由として考えられているようだ。

確かに、これらの要因も間違いではないと思う。しかし、ビデオゲーム業界の構造を鑑みると、実はこれらの要因は中止にほとんど影響を与えておらず、E3が中止するに至った本当の理由は別にあるのではないかと筆者は考えている。ではその「本当の理由」とは一体何か。ビデオゲームの産業的、文化的な変化を鑑みて論じたい。


拡大する市場と高まる反発によって生じた見本市

まずE3とは何か、これをもう少し具体的に説明したい。前述の通り、E3は世界最大級のゲーム見本市であり、業界関係者が最も注目するイベントだった。特にロサンゼルス・コンベンションセンターを貸切った会場は極めて広く、取材に赴いたゲームメディアの記者たちが死相を浮かべて帰国するのは恒例である。

そんなE3が始まったのは1995年。それまではアメリカには1月に開催される電子機器の見本市Consumer Electronics Show (CES)の一部を間借りしていたのだが、「不利な展示を強いられたり、スケジュールも市場に合わない(※)」など業界人から不満も多く、ここに存在していたゲーム企業各社だけで独自に見本市をやろうとなり、E3として独立することになったという。

(※:ゲームマシン第500号より)

1995年といえば、日本でPlayStationが発売された1年後であり、ゲーム業界が大変にぎわっていた年でもある。実際、初年度のE3ではSEGAのセガサターンがお披露目となったうえ、そこに対抗してPlayStationが299ドルで発売されるなど、初年度にしてE3はゲーム業界の注目を一身に集めていた。

CESは現在でも世界最大のテクノロジー見本市。画像は本田技研工業より。

しかし、E3が創設された理由はもう一つある。それが当時、『モータル・コンバット』におけるゴア表現などに端を発した、ゲームを規制せんとする社会の反発である。

E3創設者の一人、パット・フェレルによれば、当時のビデオゲームは社会的に「二級市民」も同然の扱いを受けており、議会の公聴会などで反論するための主体が必要だった。そこで1994年、業界各社の責任者を集めた利益団体としてエンターテインメントソフトウェア協会(ESA))を設立するに至るのだが、このESAの団結を社会に示すための「場所」、そしてESAの活動に必要な「資金」それぞれを調達する手段として、求められたのがE3だったのである。(なお、2016年の時点でESA資金のおよそ48%をE3からの収入で担っている)


1994年当時はInteractive Digital Software Association(IDSA)という名前だった

一方、北米と肩を並べるゲーム大国・日本においても、E3よりわずか1年後に東京ゲームショウ(TGS)が開催され、さらに同年に日本ゲーム業界の利益団体であるコンピュータエンターテインメント協会(CESA)が設立されているのは、日米において同じ問題意識を共有していたあらわれだろう。事実、スクウェア・エニックスの代表取締役社長にして2006年からCESA会長も務めた和田洋一は「下手すると大幅規制か不買運動になりそうなレベル」な暴力ゲームの問題に対処することがCESAのアジェンダだったと振り返っている。


このE3とESA、CESAとTGSの関係からもわかるように、そもそもE3が開発されるきっかけは、突如として若者を中心にカルチャーの中心となったビデオゲーム産業・文化への抑圧を試みた社会に対し、ESAやCESAのような組織を通じて業界内の団結をはかり、これを対外的にアピールしつつも活動の資金を調達する手段だった、というのが一つの説として挙げられるだろう。

ではこの背景を鑑みたうえで、なぜE3中止に繋がったのか?これは次の問題と合わせて論ずるとして、もう一つ、E3が中止した極めて重大なゲーム業界の変化について述べよう。


実はゲーマーの関心はどうでもよかった?

1990年代、「家電」から独立した一つの市場として見られるようになった好景気と、それに伴う社会・政治レベルでの抑圧に対応する形で、北米ではESAとE3が、日本ではCESAとTGSがそれぞれ誕生した。ただしこの「市場」「社会」いずれせよ、共通するのは「対外的」な目的だ。これもE3における重大な目的だったが、実はもう一つ、E3にはゲーム業界の内側、つまり「対内的」な目的も存在した。

それはずばり、「ビデオゲームの流通」である。

ここで、ゲームの流通について改めて振り返ろう。E3の誕生した1990年代当時、子どもたちがビデオゲームを遊ぶまでには、実に様々な過程=流通を経ていた。まず、ディベロッパーがゲームを開発し、パブリッシャーがこれを販売する。そこからは更に代理店が宣伝し、問屋が仲買し、小売店が陳列……そしてようやく消費者、つまり子どもたちの手に届くわけだ。

筆者図。あくまで一例、ということで。

この流通に関わる膨大な企業が、相互に商談を持ち掛けたり、次に販売をするための商材(ゲーム)を探すための場所が、E3やTGSのような見本市なのである。例えば、問屋や小売は新しいソフトウェアを実際に遊んで本当に売れるのかどうかを確認することができるし、逆にディベロッパーはそれらの反応を見て内容の改善を行ったり、あるいは代理店やプラットフォーマーには自社の権威をアピールする絶好のチャンスとなる。そのほか、行政や教育など直接ゲームと関係のない組織や、ベンチャーやスタートアップなど今から業界への参入をもくろむ企業にとっても、こうした見本市は重要なタッチポイントだ。またイベント終了後には独自の商談やセミナーが設けられ、これを目当てに参加する企業も少なくない。

画像は東京ゲームショウより

先ほど、家電見本市CESからE3が独立した過程を論じたが、まさに「流通」を支える見本市としての性格は両者に通じている。実際、今もヨドバシカメラなど家電量販店には大きなゲームコーナーが用意されているように、当時は「家電」、あるいは「玩具」流通をそのままゲーム業界は利用していた。そしてE3やTGSが独立したのも、ゲームの流通が一層複雑になり、ステークホルダーが増えたためだ。

このように、E3はゲームの流通を円滑にするためのBtoBイベントであり、原則として業界人しか参加もできないイベントだった。そのため、メディアが指摘するようなE3の世間(消費者)に対する求心力というのは、実は最初から期待されていないし、極論、消費者がE3の存在を知る必要すらない。最初から消費者に対する商品・ブランドの宣伝(BtoC)に特化した「Nintendo Direct」とは比較にならず、そもそも正反対の目的を掲げているのだ。

とはいえ、E3も大衆ゲーマーをまったく軽んじていたわけでない。一般参加者の代わりにゲームメディアを招き入れ、彼らに独占的な情報を提供することによってゲームメーカーは労せず広告活動することができ、そんなゲームメーカーから参加費として運営資金をESAは得られた。言い換えれば、大衆を熱狂させるのはE3ではなくゲームメディアの役割であり、「Nintendo Direct」の直接的な競合はE3ではなくゲームメディアだと言える。この辺は、また別の機会にでも論じたい。


業界構造の変化に伴って衰退したE3

対外的には業界内の団結をアピールしつつ、対内的には流通を中心にステークホルダーたちの商談が交わされたE3。ここで勘のいい読者であれば気づいたかもしれないが、まさにこのE3の主な目的だった「流通」が2010年代に大きく変化したことによって、自然とE3も衰退していったのである。

では2010年代のゲーム流通はどのように変化したのか?

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