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『マリオワンダ―』の「おしゃべりフラワー」がいかに革命的か解説するよ

『スーパーマリオブラザーズ ワンダー』(以下、マリオワンダー)をプレイした。なるほど、これは名作である。マリオ、というより2Dプラットフォームを今更になって任天堂がやるという意義を、作品のすべてを通じて達成しきったといえるだろう。

ただ今回「マリオワンダー」の中でも注目したいのが、喋る花こと「おしゃべりフラワー」である。本作は「ゾウマリオ」など新要素がありながらも、基本的には2Dプラットフォームという極めて伝統的なゲームジャンルの延長線上にある。しかし「おしゃべりフラワー」は明らかに2Dプラットフォームとも関係がなく、そもそも既存のゲームジャンルにもほとんど例のない、特異な要素だ。

そのためか、本作が発表された当初から、この喋る花の存在は、ソーシャルメディア上でも困惑をもたらした。中には、このおしゃべりフラワーこそが黒幕であり、最終的にラスボスとして討伐する対象になるのではという疑惑すらあった(どっかの地下王子の前科があるためだろう)。筆者自身、実際にプレイしてみるまで、この花の存在意義が全くわからなかったのも事実だ。

え、なにこの花……

ところが実際にプレイしてみたところ、本作が名作となりえたのは、もちろん基礎となるゲームデザインのクオリティが高いことに加えて、この珍妙な花の存在が、実は非常に大きな貢献を果たしているのではないか……特に、ゲーム実況・配信が定着したゲーム文化を踏まえた、全く新しい地平を拓いたのではないかと思えた。

そこで今回はこの「おしゃべりフラワー」がどうすごいのか、という話をしたい。


おしゃべりフラワーとは何者なのか

そもそも「おしゃべりフラワー」とは何か。

おしゃべりフラワーは「スーパーマリオワンダー」のマップ上に存在する一種のNPCである。

マップにつき1体から、多い時は10体ほどが配置されており、それぞれ流暢な日本語で話しかけてくる。内容は「あそこに何かありそう」といったヒントのようなものから、「すごい!」といったプレイヤーの行動に対するリアクション、「うわああああ」といった特に意味もないリアクション、あるいは「嫌な予感」などゲームの展開を予期したメタ発言のようなものも存在する。

ヒィ~~~

登場頻度が多いおしゃべりフラワーだが、実はゲームプレイには一切関与しない。

つまり「スーパーマリオワールド」のヨッシーのように、具体的にマリオに手助けをしたり、アイテムをくれるといったことはせず、純粋なゲームプレイとしては存在せずともなんの変化もない。

それどころかストーリーにも実はほとんど寄与せず、一応舞台となるフラワー王国の住人らしいのだが、同じ住人として登場するポプリンやフロリアン王子といった可愛らしい住人がマリオたちを美辞麗句で賞賛するのに対し、おしゃべりフラワーは第三者的な立場でコメントし、そもそもマリオやフロリアン王子が双方に認識している風ですらない。

総合的に考えると、おしゃべりフラワーはマリオシリーズとして、いやビデオゲームとしてかなり異様な存在である。一応、ヒントを教えてくれる存在という点では『ゼルダの伝説 時のオカリナ』でいう「ナビィ」や、『スーパーマリオ オデッセイ』でいう「キャッピー」は存在する。しかし、ゲームと全く無関係なリアクションやギャグをいったり、ましてそれがストーリー(マリオたち)と関係するどころか認知もされず、本筋としてはフロリアン王子とのありふれたやり取りが存在する。

 今作のキノピオポジションに収まってるポプリン。逆におしゃべりフラワーには誰も触れない(怖い)


では、結局おしゃべりフラワーは何のために存在しているのか。彼は一体誰に話しかけているのか。実はこうした謎が作中で明らかにされることはついぞない。

そもそも、おしゃべりフラワーは非常に享楽的で「わぁすごい」だの「びっくりした」だの、マリオやフロリアン王子たちの戦いを他人事としており、この点でナビィやキャッピーのようなヒントキャラとは異なり、明らかに一つ異なるレイヤーに生きている。つまり、おしゃべりフラワーの発言はメタ発言ばかりなのだ。

発言内容だけでなく、そもそも一介のNPCにも関わらず、日本語を流暢に話すという時点で扱いが格別である。フロリアン王子がキャヒーみたいな鳴き声しか出せず、マリオやピーチでさえ「I did it!」と小学生並の英語が精一杯なことを鑑みると、おしゃべりフラワーとマリオの知性は『2001年宇宙の旅』のモノリスとチンパンジーぐらいの差がある。声優が北島淳司というのも絶妙で、なんだかバイト先で面倒見のいい先輩のような彼の声が、ファンタジーな世界観から明らかに浮いている。しかも、それでいながら陰謀論通りにラスボスなわけもなく、最後まで無害な第三者なのである。

普通に寝返ってる奴もいる

これらをまとめると、おしゃべりフラワーはゲームデザインにもストーリーにも関与せず、その代わり、日本語を流暢に話すことができ、しかもそれが普通のおじさんの声で、一つの上のレイヤーからプレイヤーの行動に逐一リアクションを入れている。すなわち、おしゃべりフラワーは実質的にゲーム世界内には存在せず(あるいは、ゲーム世界と現実の間に存在する)、どちらかといえば、むしろプレイヤーに近い立場にいるのだ。

この前提を踏まえると、おしゃべりフラワーの様々な発言は、プレイヤーの心境の代弁であることがわかる。

「びっくりした」「うわああああ」といったリアクションはそのままだし、例えば「あそこが怪しい」「この先何かありそう」というヒントっぽい発言にしてもプレイヤーが容易に推察できるゲームデザイン上のヒントの言語化である(例えば、一つだけ色の違う土管を発見したプレイヤーは「怪しい」と感じるだろう)。「すごい」「いらっしゃい」といったプレイヤーの達成に対する誉め言葉も、無論、プレイヤー自身が得た達成感の言語化といえるだろう。

ではこの「プレイヤーの心境の代弁」をしたものは何か。これこそゲーム実況であり、おしゃべりフラワーの発言は、ゲーム実況の内製化だったと考えられないだろうか。


ゲーム実況の需要=感情の代弁

ここまで、おしゃべりフラワーの存在意義を分析してみた。この分析自体は一応納得いくものになったとして、ではそれがゲーム実況であると主張するにあたり、そもそもゲーム実況とは何か、ゲーム実況が何故これほど愛されているのかという話もまたするべきだろう。

そもそもゲーム実況の原点は、2003年に放送された「ゲームセンターCX」が原点だと考えられている。お笑いコンビよゐこの有野が、ゲームをプレイしながら様々なリアクションを淡々と撮影するというもので、後にPeercast、ニコニコ動画、YouTubeなどのプラットフォーマーを介したUGCとして同じようなものが拡散し、現在に至る。ここまでは多くのゲーマーが知っている話だと思う。

当然ながら「マリオワンダー」の実況動画も多数投稿されている


現状、ゲーム実況(配信)は動画プラットフォーム上では最大規模のコンテンツであり、それ自体が一つのカルチャー、コミュニティを形成していることは異論の余地がない。では何故、これほどゲーム実況は愛されるようになったのか、この理由は様々あるだろうが、筆者個人として興味深い解釈が、ゲーム実況のある種「感情代弁能力」に着目したものである。

そもそもゲーム実況とは、文字通り、ゲームをプレイする様子を自ら実況することからそう名付けられた。逆に言えば、多くの人はゲームをプレイしながら独り言を呟くことはない(せいぜい「は?」とか「ラグっ」程度だろう)。ゲーム実況の本質とはゲームプレイの言語化であり、一体なぜこのようなプレイをしたか、プレイの結果何が起きたか、その結果としてどう感情が揺れ動いたかといった様々な理屈や情緒を、実況者が言語化することで、実際にプレイしていない鑑賞者も楽しめるという仕組みになっている。当然ながら実況のないゲーム実況は存在しないし、実況が魅力的なものになって初めてコンテンツとして評価される。

逆に言えば、ゲーム実況が間接的に指摘せしめたのは、ビデオゲームをプレイするにあたり、多くの人が抱く感情……つまり「こええ!」「つええ!」などの驚愕や、「よっしゃ!」「いえー!」といった達成や、「めっちゃきれい……」「すげぇ……」といった感動などを、わざわざプレイしている間に感じることはできず、半ば作業的に淡々とゲームをプレイしているという点にある。

うるせえ

自分の知人の記事にも似たようなことが書いてあったのだが、ゲーム実況や配信といったコンテンツを渇望するのは、実はゲーム(作品)というより、ゲームをプレイしても感動を抱きづらい人、日々の生活で感性が摩耗してしまった人が、本来このゲームを遊ぶとこういう感情を抱くんだよと教えてもらうためにゲーム実況を見るのだみたいな解釈も可能だろうということだ。


つまりゲームをプレイしていても、何が面白いか、どこで楽しむべきか検討がつかず、表情筋を固めたままプレイする人が、少なからずいる。実は筆者でさえこの心境は理解できる。ゲームをクリアすること自体は(1980年代のアーケードゲームに比べれば)うんと楽になった現代社会だが、ゲームを楽しむこと、そこから感情を得ることは、意外にも難しい。筆者は批評をするからかなり掘り下げてみるが、それはそれで疲れるし、そもそも単に娯楽として楽しむ人がそこまで努力したくはないだろう。

そこまで悲観した人でなくとも、単に同じゲームをプレイしても、自分が詰まったボスを他人がどうやって突破するのか観察したり、自分が憎くて殺したキャラクターが他人は許すかどうか等、他人がプレイを通じて得た感情を見ることで作品の別の側面を知ることもできるし、それが実況によってパーソナライズされるとまた楽しみ方も変わる。もっとも、それらを踏まえたとして実況文化でむしろ失ったものや、そもそも審美や美醜の議論もなしに論じられるか等の反論は予期できるが、少なくともゲーム実況を求める需要、すなわち感情の言語化が実際にあったことは事実だ。

このゲーム実況=感情の代弁という点を鑑みると、おしゃべりフラワーがゲーム実況者的な何かをゲーム作品自体に内在化した試みであることは、これまで振り返ったおしゃべりフラワーの配置やセリフを考えれば、容易に推察できると思う。

ウェイ系実況、なんていうが、まんまである

おしゃべりフラワーはゲームプレイ、ストーリー上でほとんどマリオたち作品世界に干渉せず、第四の壁にいながら、さりとてゲーム内世界と現実を繋げたメタフィクションへ展開することもなく、あくまでリアクション、驚愕、混乱、歓喜といったものは、マリオではなく本来プレイヤーが抱くものを代弁し続ける。あるいはプレイヤーの疑問や疑惑を代弁してヒントを示唆したり、それを解決したプレイヤーの喜びをちゃんと報いる。

これらはいずれにせよ、ゲーム実況・配信においてインフルエンサーが日常的に発するパフォーマンスそのものである。つまりゲームプレイに対して抱くべき感情を言語化し、それを(感情を抱きづらい)鑑賞者に対して伝えることで、ゲームプレイから生まれる感情を共有可能のものとする。だからこそ彼らは、様々なリアクションを半ば大げさにやり、疑問は言葉にして、クリアすれば勝鬨をあげる。つまりおしゃべりフラワーは、ゲーム内世界に存在する専属のゲーム実況者、なのだ。

よって結論として、おしゃべりフラワーが導入された理由とは、ゲームプレイで本来プレイヤーが抱くべき感情を言語化することで、プレイヤーの感情を補助・増幅する効果と言える。


なぜ、おしゃべりフラワーが革命的なのか

ここまで、おしゃべりフラワーと実況者の相関関係について述べてきたが、無論これは単なる思い付きや偶然で生じた関係ではない。あの任天堂が、あのマリオでやる以上、相応の理由と経緯があったのである。

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