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「FF16ポリコレ批判」への反論 ゲーム批評のポスト・トゥルース

筆者は基本的に「ポリコレ」をめぐる議論には、距離を取ることを念頭に置いていた。少なくともゲームゼミではもう少し生産的な議論をやりたいと思ったからだ。しかし、あまりそう悠長に無視を決め込んでいても、それはそれで間違った事実が拡散してしまい、批評そのものが危ぶまれることになる、ということを『ファイナルファンタジーXVI』(以下、FF16)の流れで感じてしまった。

結論から言うと、本作『FF16』に対して「特に人種の多様性が欠けている」といった批判が寄せられているのだが、この批判は明らかに事実と反するものが含まれている。

これは価値観や感想の対立ではなく(つまりポリコレを気にしろ/無視しろのような)、客観的な事実として「描かれたもの」を「描いていない」と国内外の大手メディアが批判しており、それは価値観や感想以前にポスト・トゥルース的な陰謀論となっていると認めざるを得ない。

特に『FF16』に寄せられた批判として、昨今話題となったのは文春オンラインの記事だろう。そこで予め断っておくが、筆者は特別、文春オンラインの記事やそのライターだけを否定する意図はない。

実は『FF16』発売前から海外メディアによって既に「多様性」に関する批判は寄せられており、文春オンラインはその一部に過ぎない。現に筆者が本稿を執筆し始めたのは6月26日である。

具体的には、PC GAMER

The Verge

Kotaku

Eurogamer

Game Informer

……といった大手海外メディアによって、「人種的多様性が欠けている」という点で批判されており、そもそも文春オンラインの記事にもこれらが引用されている。つまり、ライター個人の価値観や、メディア単独の問題ではなく、あくまでメディア全体、ゲーム批評全体で普遍的な問題となっているのだ。


では果たして、本当に『FF16』は人種的多様性を軽視したゲームなのか、白人による支配を肯定する物語なのか。無論違う。実際にゲームをプレイした人間であればわかるように、本作はあくまでファンタジーの世界観、中世ヨーロッパの原型をベースに置きつつも、その中で一定の多様性を含めており、少なくとも当該メディアの主張には大きな誤りと偏見が含まれている。

そこで、本稿はあくまで「記事でどう批判されていたか」をベースに、実際に「作品でどう描写されていたのか」を比較し、実際に記事にどのような事実の誤認があったのか、そしてそれが、メディア同士で共有されていったのかを検討する。これらを通じ、改めて「ゲームで政治を語ること」の課題について明らかにできればと思う。

一点、本稿は『FF16』の批評ではなく、あくまで「批評に対する批評」である。つまり『FF16』という作品には今回触れず、筆者なりの批評は別に投稿する予定である。よって「つまらないと批判されているが、本当は面白いのだ」という文意ではないし、また文春オンラインの記事の一部批判にみられた「ゲームだと割り切って楽しめばいい」という批判にも同意しない点は、ご了承いただきたい。

念のため、本稿の執筆を始めた記録も証拠として掲載しておく。下書きにつき、表記がぶれている、一部削除していることはご容赦いただきたい。



検証:「誤読」はどこから始まったのか

誤読の懸念を払拭したところで、ようやく本題へと入ろうと思う。繰り返すように、本稿の目的は「国内外の大手メディアによって、明らかに事実と反する批判が行われていることを、事実に照らして反駁すること」、特に『FF16』という作品の描写を、明らかに歪めて解釈していることへの反論である。よって、最初に鑑みるべきは、一体だれが最初に「誤読」したのかという点だろう。

例えば、文春オンラインには以下のような記述がある。

なお、本作に黒人は登場しない。KotakuやPC Gamerといった海外メディアはそれに対し批判の記事を出しており、後者は「歴史的『リアリズム』を口実に黒人キャラクターを排除した」とまで言っている。
(中略)
このような状況を鑑みると、『FF16』の物語は軽く見えてしまう可能性がある。海外メディアのEurogamerは、北アフリカや中東などをモチーフにした町があるのに黒人や有色人種がいない本作の設定を空虚と表現している。

人種問題だけじゃない…『ファイナルファンタジーXVI』が国内外で“賛否両論”を呼んだ“納得の理由”

このように、文春オンラインでは海外メディアの批判を「引用」する形で、重ねて批判されている。しかし実際には、ここで引用されたKotakuやEurogamerにおいても、IGNの記事が「引用」されており、さながら伝言ゲーム的に批判が伝播していることがわかる。では一体どこから問題が始まったのか。

芋づる式に引用元をたどると、IGNに掲載された『FF16』開発陣へのインタビュー「Exclusive: Final Fantasy 16’s Developers Open Up About Game of Thrones Comparisons, Sidequests, and Representation」に辿り着いた。以下、少々長くなるが、インタビュイーの意志を尊重し、そのまま引用する。

――本作のダイバーシティ(多様性)についてですが、『ファイナルファンタジーXVI』に黒人のキャラクターや、有色人種(非白人)のキャラクターは登場するのでしょうか? 補足させていただきますと、トレーラーに登場するキャラクターのほとんどが白人である点がファンの間でディスカッションされています。本作は最終的によりダイバース(多様)になるのか確かめたかった次第です。

吉田:こちらは非常に難度の高い質問だと感じていますので、長い回答となりますが、ぜひ最後までお読みください。
エンターテインメント内のダイバーシティというのは、昨今、多く取り上げられる話題となっていますので、想定していなかったものではありません。しかし、僕たちが持ち合わせている回答は、皆さんの個々の期待値によっては、一部の方々にとって、残念に感じられてしまう場合もあるかもしれません。

今回の物語をデザインしていく上でのコンセプトとして、我々は開発の初期段階からそれ以降も常に、中世ヨーロッパを強く参考にしており、歴史的、文化的、政治的、そして人類学的観点でも、中世ヨーロッパのスタンダードを組み込んでいます。

我々が語りたかった物語である「黒の一帯という脅威により、追い詰められた土地と人々」を描くため、舞台設定を惑星全体規模ではなく、追い詰められた大陸ひとつに集約することにしました。そこは、飛行機も、テレビも、電話もない時代で、地理的にも文化的にも外界から隔離された場所でした。この舞台設定自体の基盤となっている地理的、技術的、そして地政学的な制約により、ヴァリスゼアに対して、現実である地球上の現代社会ほど、広範囲の多様性を持たせることは非現実的でした。我々が開発/運営を行っている『ファイナルファンタジーXIV』の世界と比較しても、惑星全体(それこそ月や系外惑星に至るまで)に及ぶ国家、人種、文化を思いのままに宿せるのとは、描ける規模が根本的に違う、ということになるのです。そして、『ファイナルファンタジーXVI』の物語は、外界から隔絶されているというヴァリスゼアの性質が、物語の核心・中核にも根差しており、その点はぜひ本編を体験していただけると嬉しいです。

これらの結果として、ヴァリスゼアという物語の舞台に多様性という重要な要素をしっかり入れつつも、民族的多様性を「入れ込み過ぎること」は、我々が語りたかった物語(ファンタジーでありながらも実際の歴史に根差している物語)にオーバーフローをもたらし、自分たちが目指す物語を創るために、あえて自らに課してきた制約を壊してしまうものになり得る、と考えました。

「ファイナルファンタジー」シリーズは、その本質としてこれまでも常に対立や葛藤、とくに人類の歴史においても際立って繰り返し見られる「権力者と、そうした一部少数の優遇者に使われる者、あるいは搾取される者たちの対立」などと向き合ってきました。プレイヤーの皆さんは、こうした対立や葛藤を、迫力あるバトルを通じて、自ら体感していただくことになります。これはインタラクティブなビデオゲームだからこその特性です。ここに、受け取る側の先入観を引き起こすきっかけとなったり、意図していない不当な思惑を招いたり、そして最終的に論争の炎上を掻き立てることなく、異なる多様な民族を主人公役/敵役に割り振ることは、非常に難しく困難を伴います。

歴史から直接インスピレーションを得ることの醍醐味は、新たなものを作りながらも、自らの過去を再訪し、再考を可能にする点だと考えています。だからこそ、僕たちが皆さんに注目していただきたいのは、キャラクターの外見よりも、むしろ「人」として彼らがどんな内面を持つのか。それは複雑で、なおかつその性質、背景、信念、性格、動機において多様性を持ち、皆さんの多くが共感できるようなストーリーを持っている、という部分です。ですから、ヴァリスゼアにも間違いなく多様性はあります。それは、あらゆる面での多様性とは言えないものの、僕たちが作り上げた舞台設定と相性が良く、相互に物語の品質を高め、開発チームのインスピレーションやコンセプトにも忠実であり続けられるような多様性になっています。

(IGN Japanによる翻訳版、『ファイナルファンタジーXVI』の開発者に独占インタビュー『ゲーム・オブ・スローンズ』との比較やレーティング問題、人種の表現について訊くより)

吉田の主張を筆者なりに簡約すると「「黒の一帯という脅威により、追い詰められた土地と人々」を描くため、舞台設定を惑星全体規模ではなく、追い詰められた大陸ひとつに集約する」という前提のもと、「外界から隔絶されているというヴァリスゼアの性質が、物語の核心・中核にも根差しており」というユニークな世界観設計と、「論争の炎上を掻き立てることなく、異なる多様な民族を主人公役/敵役に割り振ることは、非常に難しく困難」という懸念から、現実世界の民族的多様性を「入れ込み過ぎ」ない一方、「キャラクターの外見」でないところに「ヴァリスゼアにも間違いなく多様性はあります」と答えている。

この吉田の返答は、自分たちが描きたい虚構世界が現実とは異なること、「世間に期待される多様性」が完全に実現されるわけでないというだけで、決して多様性を否定しているわけでない。しかしながら、既にこの吉田の返答に対して、一部の大手海外メディアが吉田の発言の一部を抜粋した上で、厳しい批判を投げかけた。

まず、北米メディア「Kotaku」は「Final Fantasy XVI Dev Has A Terrible Answer For Why The Game Is So White(『FF16』開発者によるなぜゲームが”とてもホワイト”なのかに対する残念な回答)」において、「『FF16』には注目すべき問題が一つある。つまり、一人として非白人のキャラクターが登場しないであろうということ」と前置いて「ここで疑問が生じる。そもそもなぜ彼らは「白人専用」の境界線を設けたのか?」「真に苛立たせるのは、黒人、褐色人が常に中世ヨーロッパに存在していた事実だ。もし開発陣が歴史の研究と偏見の修正を怠らなければ、それに気づいただろう」と、痛烈に批判している

またPC GAMERは「Final Fantasy 16 is the latest game to use the historical 'realism' excuse to exclude Black characters(『FF16』は黒人排除のための言い訳に「歴史のリアリティ」を使う最新のゲームだ)」というタイトルの記事で、「吉田氏の説明には不満があり、そもそも歴史的にも正しくない」としつつ「『ウィッチャー3』の開発にも使い古された言い訳」として、なぜか「『FF16』はしばらくPS5独占のようだが」と付け加えながら「『FF』は常に「ホワイトな」ゲームシリーズだったが、吉田の多様性に対する返答は案の定失望を招いた」結論付けている

さて、このKotaku、PC GAMERの記事はあたかも「政治的正しさ」に基づいて批判しているようだが、不可解な点が多々ある。

まず、何故発売してもいないゲームの、それも自分でインタビューしていない質問に対して、仮にも大手メディアが勝手に想像で批判をしているのか、という点。もっと言えば、吉田が慎重を期して話した内容を、せめて「この回答は”不安だ”」と釘を刺す程度ならまだしも、意図的に話を切り抜き、炎上させてやろうという意図が見え見えの攻撃的な批判を行ったのか。取材活動、作品批評、どちらの「仕事」に対しても軽薄極まりない。

しかし問題はこんな基礎的な部分に留まらない。Kotakuの場合、「一人として非白人のキャラクターが登場しないであろう」と予測されているが、実はこの記事が発表される5か月前の2022年6月には、一目で非白人とわかるフーゴ・クプカが発表されており、彼の出身が「ダルメキア共和国」である=フーゴと同じ人種が国家を築いていることが明らかなことからも、「一人も非白人が登場しない」という主張は完全な間違いであり、「歴史の研究と偏見の修正」が為されていないのはむしろKotaku側であることがわかる。

PC GAMERの主張も同じく問題がある。まず「『FF』は常に「ホワイトな」ゲームシリーズだった」という主張に対しては、言うまでもなくバレット・ウォーレス(FF7)、サッズ・カッツロイ(FF13)のようなアフリカ系キャラクターが主要パーティなのは無論、ビビ(FF6)やレッドXIII(FF7)のような亜人も登場する。言うに及ばず、世界観も一貫してヨーロッパなわけでなく(キャラの造形がドットで描かれ、とても人種など判別不可能な)『FF3』から既に様々な大陸を渡る物語を展開し、『FF6』からはファンタジーではなく近代、未来へと舞台を変えており、『FF16』と比較できる世界ではない。

何より、『FF10』はティーダ、ジェクト、ユウナ、アーロンのような主要人物がほぼアジア系でありながら、舞台そのものもスピラという東アジア的世界で、『シン』を巡る輪廻の概念も東アジアの仏教的宗教観がモチーフなのは容易に推察できる。それこそ欧米のゲームの大半が白人男性のマッチョな活躍ばかりを描いていた時代に、スクウェアはアジア人によるアジア的世界の風光明媚を堪能させ、最後には典型的なヒロインの「対象化」を逆転させたエンディングまで『FF』は描いている。そうした文脈を無視して「FFはとてもホワイトだった」という主張は矛盾していると言わざるを得ない。


他にもツッコミどころは多数あるのだが、いずれにせよIGNのインタビューを受けた記事は、多くが「インタビューをちゃんと最後まで読んでない」「そもそもゲームが発売すらされていない」という前提を守らないどころか、「所詮FFはホワイトウォッシュされたゲーム」「日本人は多様性を理解できない」という明らかな偏見と差別に基づき批判していることは、おわかりいただけると思う。

(なお筆者は一時期PC GAMERを有料購読しており、紙媒体でも何冊か取り寄せたほどの読者だった。今のPC GAMERの零落ぶりは元読者として実に悲しい。)

幻のSteam版「PC GAMER」である。BF1942がTribes2と比較されてるのは懐かしいを通り越してる。


批評:発売後に発表されたレビューへの反論

ここまで引用した内容は、あくまで作品が発売前にメディアが寄せた評価だった。繰り返すように、そもそも発売前に作品内容を憶測で批判することや、そもそも批判の前提にある知識に欠落があることから、これらの記事がむしろ偏見に満ちたものであるというのは論じた通りだが、それでも発売前である以上「不安」「予測」という表現で留めておけば、必ずしも「事実と反する」わけではなかった。

しかしより大きな問題として、実際に発売され、人々がプレイした段階においてもなお、「不安」「予測」がさも事実かのように語られ始めた。それによって、いよいよ「FF16には有色人種が排除されているゲームだ」という風説が、さも事実かのように語られ始めていったのである。

例えば、

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