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父に棄てられ、母に虐げられた『DOOM』の救済、あるいはビデオゲームの「血」の呪い

「幸福な家庭はどれもみな同じようなものだが、不幸な家族はみなそれぞれに不幸である。」

『アンナ・カレーニナ』トルストイ


マリオ、ソニック、ストリートファイター、ドラゴンクエスト、他のゲームがそうであるように、『DOOM』も優れたゲームデザインという遺伝子から、またディベロッパーという血から、数多くの兄弟が生まれた。初代、2、Final、3、RoE、2016、そして最新作の『DOOM Eternal』。

にも関わらず、これらの子はどれも顔が似ていない。母親は同じでも、父親はどれも違うのではないか、いや絶対に違うと確信できるほど違うのだ。いくら同じ服を着せ、散弾銃を持たせたって、全然似ていない。同じなのは名前だけだ。

血、家族、系譜、われわれはそれらを「シリーズ」として、ビデオゲームと接する。親戚が「◯◯さんの家の息子だから」と誇らしげに語るように。無論、多くのビデオゲームは血に、親に、家に、支配されるし、こうした言説はビデオゲームを読み取る上で大きなヒントとなる。

だがその血、その期待が、時として残酷に作品を蝕み、時として殺すこともままある。父親の拳と、母親の言葉が、子供たちを虐げるように、作品もまた血によって生まれ、苦しみ、そして死ぬ。


中でも『DOOM』は偉大なビデオゲームの中で最も不遇なシリーズであった。誰もが羨むほど美しさと賢さに恵まれながら、しかし、家には恵まれなかった。

そもそも、夫婦仲が悪かった。美貌と才能に恵まれた長男と次男が生まれるまでは、少なくとも夫婦仲は何事もなく円満な、幸福な家庭だった。ところが長女が生まれると頃には、教育方針を巡って両親の言い争いが増え、父親は外に女を作って飛び出してしまう。母親は何とか一人で三男を出産するが、顔こそ絶世の美少年だったものの才能はからきしで、親戚にも笑われた。そこから家庭環境は崩壊状態となり、四男に至っては12年近い虐待を受けていた。

無数のビデオゲームの中で、『DOOM』は言うまでもなく最も偉大なゲームの1つである。このゲームがなければ一人称視点で銃を構え、走りながら敵を撃ち、自己とも他者ともつかぬ狭間に落ちたり、全て自分の目で見たような迫力に圧倒されることもない。つまり、FPSが存在しなかった。厳密には、FPSが現在まで存在するほどのジャンルとしての価値を発見されることはなかっただろう。その可能性を拓けた、ほんの僅かなゲームの1つが『DOOM』だ。

今より語るのは、繁栄したゲームではよくみられる家庭内暴力の実態と、そんな環境でも偶然や他者に救われて育っていく子供たちの奮闘記である。


ジョン・ロメロという父親

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