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「クソゲー」の最大の被害者は誰なのか?

12月12日17時追記


『The Day Before』をプレイした。率直にって駄作である。Steamでは16000件レビューのうち80%が低評価という、恐らくSteam史上でも稀に見る悪評に納まっており、それ相応に批判を浴びている。

しかもこのゲームは、発売前から明らかに不穏だった。「壮大な割にえらく抽象的なコンセプト」「プロモーションだけはえらく立派」「延期に次ぐ延期」というフラグを役満状態で立てており、発売前から「大丈夫なのかこれ」という空気が予約購入者の間にはあった。

そして実際に発売されると、案の定、完成には程遠いものだった。いかに「アーリーアクセス」といえど、問題を抱えていることを承知で送り出したことは明白であり、それによって一層批判を浴びたこともあるだろう。中には「詐欺」や「クソゲー」といった文言も並んだ。筆者自身は『No Man's Sky』のようにアップデートで改善することを祈っているものの、とはいえ「アーリーアクセス」がエクスキューズにならない程度の品質(と価格)なのも事実だ。

(AUTOMATONなど一部メディアでは発売前からその不穏な開発状況が何度か報道されていた)


しかし、本作はまるきり駄作なわけではない。とにかく膨大なバグとグリッチとエラー、崩壊したゲームバランス、何一つとして要領の得ないゲームシステムなど、悪い要素は多々ある。しかし、ビジュアルは非常に素晴らしいのだ。

本作はポスト・アポカリプスのアメリカを舞台にしたサバイバルFPS(?)なのだけど、同様の試みであれば『DayZ』、『Escape from Tarkov』、『The Division』など、正直すごくありふれた世界観だ。しかしビジュアルの品質はこれらと比べてもむしろ勝っており、崩壊したビル群のはかなさや、放置された車のディティール、そこに差し掛かる夕陽の美しさは、実に見事である。ぶっちゃけゲーム要素を全部引き抜いて、ソロプレイ専用のサンドボックスにすれば4000円払う価値は十分あったとすら思う。

アメリカ東海岸が舞台となる

さて、こうして『The Day Before』を数時間プレイして筆者は思った。この駄作の犠牲者は、果たして誰なのだろうか?と。


追記:
本稿の初公開から5時間後、『The Day Before』の公開終了が決定した。現状、購入者に対する返金対応などは行われていない。→12月14日、返金対応が開始。
残念ながら、本作に関してパブリッシャーのMytona Fntasticが行ったことは疑う余地なく「詐欺」であり、悪質であった。結果的にプレイできなくなった本作が「クソゲー」であることも、疑う余地がなくなったと言わざるを得ない。また「アーリーアクセス」制度を悪用する事例がまた一つ増えたことで、この制度に基づく擁護(まだアーリーアクセスだから)は今後明らかに難しくなったことも指摘できるだろう。
しかしながら、この結果を踏まえると本稿で述べている「被害者としての開発者」という像は、むしろますます重視するべき点に思われる。消費者に対する救済、並びに本作に関する批判は当然として、改めて本稿の主張もまた再認識されるべきだろう。
なお、こうした事実を踏まえたうえで、掲載内容は公開終了以前のままにしておく。



プレイヤーよりむしろ開発者に同情する

もちろん駄作の最大の犠牲者は、プレイヤーである。本作のプレイヤーは4500円と少なくない金額を支払ってプレイしている。にもかかわらず駄作だったとあれば、当然憤慨して然る権利を彼らは有している。一応本作は「アーリーアクセス」として、あくまで開発中のものが公開されているという前提があるのだが、それでもテストプレイに耐えうる程度の品質は対価によって求めるだろうし、そもそも、延期に次ぐ延期で開発資金が尽きたようにしか思えない情勢では、今後の展望も期待はできない。

そのため、Steamレビュー「圧倒的に不評」に裏打ちされたプレイヤーの怒りは、ある程度、正当なものと言えるだろう(もちろん、だからといって罵詈雑言やヘイト発言が許容されることはないが)。とはいえ、繰り返すように本作は発売前から極めて不穏な空気を漂わせており、こうなるのはある程度予想ができた。もちろん何も知らずに購入したカジュアルユーザーには同情するが、幸いにもSteamには一定条件下における返品制度もあり、最低限のリカバーはある。

Steamには購入から14日以内、プレイ時間が2時間未満なら、基本的に理由を問わず返金可能という実にアメリカ的なシステムがある


むしろ筆者としては、開発者に同情してしまう。開発者の中でも、とりわけ、アートやサウンドを担当した、開発工程の中にいる大多数の開発者もまた、作品の失敗による被害者と呼べるのではないだろうか。

実際、本作の映像表現は、それ自体問題がないどころか、大変優れたものである。ポストアポカリプスのアメリカという凡庸なテーマ(既に駄作感が漂う)にありながら、正面から愚直にこのテーマに挑み、廃墟のビル群や、小銃の一丁に至るまで、テクスチャの細部の細部まで描き続けたアーティストたちの敢闘は、筆者の想像を優に上回るものだろう。

最高品質ではないが、ディティールは申し分ない

もちろんゲームのアートを創るのは、モデラ―やテクスチャアーティストだけではない。優れた表現にはアニメ、エフェクト、コンポジットなども欠かせない。クレジットでは並列でサラサラと流されていく彼ら一人一人の実力あってこそ、ゲームファンが「グラフィックがいい」(余談だが、このクリシェはそろそろ変えた方が良いだろう)と感動ができるのである。

その他、本作はサウンドも一流のそれだし、いかにバグが多いとはいえ、この広大で複雑なフィールドでのマルチプレイを管理するシステムを構築したエンジニアのレベルも高い。その他、本作ほどの大作には実に多くの開発者が、様々な形で携わり、少しでも良いゲームを作るべき努力してきたことは容易に推察できる。

かつて冗談めかして「クソゲーだけど音楽がいい」と論ずる風潮があった気がするが、実際のところ、ビデオゲームは非常に繊細な文化であり、いかに優れた素材を用意しようとも、それをゲームとしてまとめ上げる力、そして「面白さ」に繋がるゲームデザインの発想がなければ、容易に駄作になりうる。そしてこれが、ある種、ゲーム開発の最もシビアな点ではないかと思うのだ。


開発者が「駄作」から被る損失とは

こうした開発側の苦悩を考えると、作品が駄作になってしまう(=クソゲーとして世間に批判される)ことの被害者は、消費者だけではなく、そこで働く開発者にもあてはまるのではないだろうか。

『The Day Before』は「素材」だけで言えば「駄作」では全くない。しかしゲームとして、一つの「作品」としては「駄作」と評せざるを得ない。これがゲーム開発の残酷な実情である。いかに優れた「素材」を用意しようとも評価されなかったゲームは数多くある。


ではこれが開発者にとってどんなネガティブなことが起きるのか。

まず開発者にとって、重要となるのが「ポートフォリオ」という概念だ。つまり、自分はこういう作品に携わりましたよ、という経験が履歴書に書かれ、それによって転職や独立を進めることになる。欧米ゲーム業界ではプロジェクトごとに開発者の一斉レイオフ(解雇)が当たり前であり、彼らはレイオフの度にポートフォリオを携えて次の企業、次のプロジェクトに参入する。なお近年では日本のゲーム業界でもでも同じように「流動的な」雇用が広がりつつある。

Artstation等では実際にアート部門でかかわった開発者のポートフォリオが掲載されている。画像はYing Ding(Ubisoft Motreal)より

そのため、開発者が転職するにあたり、このポートフォリオに掲載されている作品は、その人材の実力や価値を裏打ちするものとなっている。つまり世間的に「クソゲー」と烙印を押された作品は、ポートフォリオ上であまり価値を持たない、下手をすると悪印象を与えかねない。無論、作品の評価や売上だけではなく、その作品で具体的にどのような作業をしたのかという個人の実力を推し量るのが自然だ。とはいえ、『ゼルダの伝説』新作に関わったという実績と、聞いたこともないゲームに関わったという実績では、当然ながらその説得力が大きく異なるのがわかるだろう。

独立する場合はもっと深刻である。近年では主にインディーゲームなど、開発者が独自に起業して自分が作りたいゲームを作る傾向にある。ここではよりポートフォリオが重要になる。作品の詳細がよくわからぬからこそ、「こんなゲームに関わった人が作ってますよ」という実績はプロモーションに大きな影響を及ぼす。何より重要なのが、パブリッシャーや銀行から開発資金の融資・提供を募る場合だ。この時も、やはりポートフォリオで値踏みされるのは言うに及ばない。

つまり開発者にとって、自分が関わった作品がどんな評価を受けたか、どれだけ売れたかというのは、恐らく一般に想像されるより重要なものとなっている。裏を返せば、開発者がゲーム開発に携わる上での報酬は、単なる給与だけでなく、暗に実績も込められている。いきなり独立したり、大企業への就職をすることが無理でも、地道に実績を詰めばいつか報われるという期待があればこそ、過酷なクランチ(ゲーム業界における、開発間際の長時間労働)にも耐えられるというもの。

いかに携わったゲームが駄作であっても、ただちに給与に影響したり、まして未払いになることは基本的にない(※)。一方、実績は長期的にかなりネガティブな影響を及ぼす可能性がある。特に若い世代にとって、貴重な20代、30代の数年間を費やし、申し分のないパフォーマンスを発揮したにも関わらず、それが報われないというのはあまりに甚大な損失だ。

購入した商品が駄作であったなら、それを批判する権利は消費者にある。

販売されているゲームに魅力を感じなければ、それを指摘する権利はゲーマーにある。

しかしながら、開発者の全員が無能なわけでも、ゲームのすべてが「クソ」なのかは、一考の余地がある。アート、サウンド、ゲームプレイ様々な要素が混然一体となるゲームだからこそ、一部分に注目して見えてくる魅力があり、逆に見えてくる課題があると語ることも、十分に意義深い「批評」になりうる(無理に擁護できる部分を見つけるべき、という話ではない。あくまで切り口の一つとして、という話)。

そして何より、ゲームは企業が作るものではない。企業に属する開発者、あるいは委託された人間が作っているものだ。どんな傑作も駄作も、あくまでそれは数人、数十人、あるいは数百人の人間が作ったものなのだ。作品への忌憚のない批評は全く構わない。しかし、人間に対する誹謗中傷は、一般論として看過されるべきではないと思う。

(※しかし、開発中に倒産したり、プロジェクトが霧散するとこの最悪のケースまで発展しうる。詳細はジェイソン・シュライアー「血と汗とピクセル」を参照)


駄作はだれの責任か

ところで、率直なところ「駄作」となった責任は一体だれにあるのか。消費者が失望し、開発者が否定される「被害」を作り出した「加害者」とは一体だれなのか。これは実に危うい疑問ではあるが、一応答えておくのがフェアだろう。

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