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失楽園として見る「ちいかわ・島編」

X上で連載されている「ちいかわ」(作・ナガノ)の「島編」が締めくくられた。「島編」は「ちいかわ」の中でも最長のシリーズであり、その反響も最も大きかった。そしてこの「島編」こそ本作の本質が最も直截かつ批評的に現われたものになっている。

そもそも、筆者は後述する事情から「ちいかわ」を論ずるつもりはなかった。しかし、ここまで大きく話題になる以上、もう少し冷静な立場で論ずる意義は大いにあるだろうと考え、改めて「ちいかわ」とは何か、その中で「島編」は何を論じており、本作が現代社会で何を訴えているのか、諸々について批評していきたい。


「虚構の敗北」としてのちいかわ

では最初に、筆者がそもそも「ちいかわ」を論じたくなかったという理由を、本作の立ち位置から鑑みたい。

「ちいかわ」は、基本的に小さなマスコットキャラクターたちが日々生活している中で、「でかつよ」を筆頭に凶暴かつ邪悪なモンスターたちがその生活を脅威に晒す、そしてちいかわら主人公がそのモンスターを討伐して終える、という一連のサイクルを繰り返している。

こうした日常の中には、ナガノ氏のグルメに対する独特の感性や、社会性の乏しい主人公の台詞といった独自性が織り交ぜられながらも、物語自体はある種の定型にあり、特筆するようなテーマがあるわけでもない。ハッキリ言えば、これが一般の漫画雑誌に掲載されていたとして、少なくとも今ほど話題になったかは怪しい。

とすると、「ちいかわ」という作品の真に特筆すべき点とは、その物語やテーマというより、掲載する媒体、すなわちTwitter(Xではなく)で連載され続ける漫画という点にある。

短期間で1ページごとに更新されていく連載スタイルは、Twitterユーザーにとってアクセスしやすく、そのかわいらしいマスコット的な表象は男女問わず共感されやすいものであり、その不穏な展開もオタク的なハイコンテクストを踏襲している。極めつけに、物語や世界観の核心が直接言語化されることなく、そもそも背景すら詳細に描かれないスタイルによって、リプライやRTを介したSNS上のコミュニケーションの恰好の題材となり、特に「考察勢」と呼ばれるような二次創作的に作品世界を補完するユーザーの志向により、本作がバイラル的に拡散されるに至った。

筆者が本作について積極的に語りたくないと考えるのは、本作がまさにこうしたソーシャルメディア的な性質を見事にハックし、本作に対してリプライやRTを行い、更には考察や批評をユーザーが自主的に行う自体が明らかに「織り込み済み」であるからだ。

誤解のないように断っておくと、筆者は本作が駄作だとか、言及すべきでないと考えるわけでない。しかし、批評家の宇野常寛は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を例に、SNSでの反響を前提とした作品の潮流を「虚構の敗北」として論じているように(「2020年代の想像力」)一般に批評を営みとし、ソーシャルメディアを「前提にしない」作品も批評する立場として、作品の虚実に自ら組み込まれることは、アンフェアでないかと考えている。

「そしてこの「他人の物語」から「自分の物語」への移行は虚構の現実に対する相対的な敗北を意味している。私たちは、虚構の中の他人の物語に感情移入するよりも、現実の中での自らの言動に承認を与えられる快楽の側に、その関心を移し始めている。作品を株券のように扱い、「みんな」が支持しているものを自分も支持することで一体感を味わうゲームに、作品を鑑賞することそのものよりも大きな快楽を感じている。」

宇野常寛「2020年代の想像力」

ただし、こうした背景を踏まえて「島編」を読むと、ちいかわは多かれ少なかれこうした自身のルーツに対して自覚的、かつ批評的な意図が込められているようにも解釈できる。


「ちいかわ」の楽園性について

「島編」の大まかなストーリーはは、主人公ちいかわたちの目線で見た場合、基本的に先述した典型をなぞった物語となっている。つまり、胡散臭いチラシに乗せられたちいかわ一行が島を訪れ、様々なトラブルに巻き込まれながらも、紆余曲折の末にセイレーンなるモンスターを撃退することで、一旦の落着を迎えた。

ただしそれは、あくまで主人公の目線に立った場合の話である。本作にはサイドキャラクターで「葉っぱちゃん」とファンに呼ばれる、2人の無貌のモブキャラクターが登場する。葉っぱちゃんは冒頭こそ島のモブたちに混じっているが、後にセイレーンが襲来するのは何者かがセイレーンの庇護下にある「人魚」を食したことへの報復であり、その犯人が「葉っぱちゃん」と判明する。そして葉っぱちゃんは島から離脱し、2人だけで無人島で新生活を始めようとするが、セイレーンがその2人を捕縛したことが暗に示される、ある種のバッドエンドで終わってしまうのだ。

「葉っぱちゃん」2人の視点で見れば、島編はまるきり失楽園、パラダイスロストの典型を辿っている。失楽園とは楽園に住むアダムとイブが、何らかの契機によって禁断の果実を口にし、その結果として神の怒りを買って楽園を追放され、悲惨な末路を辿る旧約聖書・創世記の一端を指す。そして「島」という楽園に住んでいた葉っぱちゃんが、人魚の肉を食べたことで(当然これは八尾比丘尼伝説も参照している)島から追放され、恐らくセイレーンによって永劫に幽閉されることを鑑みれば、「島編」のテーマは失楽園のそれを踏襲している(宗教的なテーマはまた違うのだが)。

しかし、本作は単なるパラダイスロストとして読むと、やや違和感の覚える描写がある。とりわけ「島」の描写は、単なる楽園というより、鍵括弧つきの「楽園」なのであって、それにはナガノらしい毒気が混ざっているのだ。

例えば、エデンも島も「食に困らない」という点では楽園なのだが、聖書に登場する楽園=エデンの園では、神が「どの木からどれだけ果実を取って食べてもよろしい」というように、基本的には菜食主義的な食生活を営むものと解釈されているのに対し、「島」における食文化は「おいし~い屋台が~てんこ盛り~」「たこや~き、すきや~き、ケバブに~」と語られるように、現代の日本的な食文化となっている。

さらに「島」には無数のヤシの木が林立しており、住民たちのファッションを見る限り、ハワイ諸島の地理や文化が踏襲されている。つまり、「島」の「楽園性」は現代の日本人が抱く俗物的なものであり、多くの読者が疑念を抱いたように、この「楽園」とは極めて戯画的なもの、あるいは軽薄なものとなっている。

では、なぜ「島」の「楽園性」が軽薄なのか。これはそもそも「ちいかわ」という作品世界そのものが、楽園だからである。

そもそも、かわいらしい無害なマスコットたちが特に争うこともなく生きている「ちいかわ」世界は、我々の現実と比べれば既に楽園に近い。生活水準こそ貧しく、「でかつよ」のような脅威こそあれど、作品のルーツが、ナガノがTwitter上に投稿したツイート「こういう風になってくらしたい」というものからしてちいかわはナガノ(とそのフォロワーにとって)の欲望そのものであり、そのちいかわを脅かそうとした魔女が「なりたいやつがいるんじゃ そういう風に」と語っていた。この点において、「ちいかわ」における「楽園」は「島」に限らず世界全体に通底する法則となっている。

そして、それ故に、「楽園の外」からやってきたちいかわ一行が、島民たちに加担してセイレーンと対峙するし、島の中でも変わらない日常を過ごしている。何より「葉っぱちゃん」たち2人の秘密を知ったちいかわが、その真意を親友であるはちわれに語らないという1ページも、ちいかわが自身とはちわれとの関係性を葉っぱちゃんの2人に重ね合わせた……すなわち、同じ楽園にいることを自覚した瞬間に他ならない。

すなわち「こういう風になって暮らしたい」というナガノを含む日本人の、現実逃避的な願望を間接的に充足する楽園がまず存在しており、その中に、より現実的な願望を直接的に充足するための楽園として「島」が内包されているのだ。


ソーシャルメディアという楽園へ

では、何故ナガノは既に存在していた「ちいかわ」という楽園の中に、わざわざ日本人の直截な欲望を露悪的に描いた「島」という楽園を築いたのだろうか。

ここで思い出してほしいのが、先述した通り「ちいかわ」とはソーシャルメディアでの連載を前提に、リプライやRTといったコミュニケーション機能さえ作品に組み込んだ、宇野常寛がいう「虚構の敗北」的な作品だということだ。

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