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『Stray』批評/ストーリー考察 猫は家畜か、それとも神か

しかし挨拶をしないと険呑だと思ったから「吾輩は猫である。名前はまだない」となるべく平気を装おって冷然と答えた。しかしこの時吾輩の心臓はたしかに平時よりも烈しく鼓動しておった。

夏目漱石『『我輩は猫である』

猫が嫌いな人間など、いるだろうか?

猫の美しさ、愛おしさ、可愛らしさに人間の多くが心を奪われ、愛さずにはおられない。そんな猫を描く作品は数あれど、日本で最も有名なものといえば夏目漱石の『吾輩は猫である』だろう。一人称を「吾輩」とするちょっと尊大な猫を主人公にしたこの作品は、猫の気まぐれで偉そう、そしてちょっと臆病な目線で描かれる。この作品には夏目のはちきれんばかりの猫愛が詰め込まれている。

新潮文庫版の表紙は特によい

冒頭に引用した一文では、主人公の「吾輩」が自分より大柄な猫の「黒」に対し「吾輩は猫である。名前はまだない」と名乗る。その珍妙な挨拶を面白がった「黒」に「ねずみを取った経験があるか」と問われ、「吾輩」は「実はとろうとろうと思ってまだ捕らない」と猫の目にも明らかな強がりを見せてしまい、「黒」には「長いひげをびりびりと震わせて」笑われてしまう。

単にかわいいだけでなく、ちょっと無謀で意地っ張り。「吾輩」は人間のように雄弁なのに、その性根はどうしようもなく猫的だ。

実はこの「吾輩」にはモデルが存在しており、それは夏目漱石が37歳の頃に、自宅に住み着いた野良の黒猫であったとされ、夏目はたいそうこの黒猫をかわいがった。1908年に黒猫が死んだ時には嘆き悲しみ、書斎の裏にある桜の下に墓を立てたとされる。

生粋の猫好きであった夏目なりに、彼らが見える世界を見ようとした。言葉にならない言葉を聞こうとした。信ずるものを知ろうとした。だからこそ今も『我輩は猫である』は名作なのである。


「猫」への人間的欲望を排除しようとする『Stray』の哲学

話を本題である『Stray』に戻そう。この作品には誰もが好きそうなモチーフがちりばめられている。ギブスン風のクラシックなサイバーパンク、愉快なロボットたち、そして何より、猫。そう、猫だ。夏目漱石ですら夢中になったあの気分屋で愛おしい生き物。ネコチャン。この時点で『Stray』の商業的成功は半ば決まっていたようなものだろう。

『Stray』の猫が廃墟を歩き回るトレイラーが公開されると、たちまち世界中のSNSで話題となった。しなやかな足取り、つかめない表情、ゲームとは思えないそのリアルに愛らしい猫描写が、ネット中のオタクの心をつかんだ。

実は開発者たちも猫を飼っており、『Stray』主人公のモデルにもなっていると開発者が打ち明けている。このような夏目漱石に負けず劣らず開発者たちのの「猫愛」、そしてネットに蔓延する「猫愛」によって、『Stray』はインディーゲーム規模の開発であるにも関わらず、8月にはSteamのレビュー数が55000件を超える大ヒットとなっている。

やることなすことかわいい

一方、筆者はこの「猫ブーム」にあやかったような『Stray』のヒットに当初懐疑的だった。

元々、奥村倫弘が「ネコがメディアを支配する」と指摘するように、現代ネット社会は「猫コンテンツ」に溢れている。今やネット上では、動画、画像、文章、あらゆる媒体で、あらゆる血統の猫がディスプレイを彩る。それ自体はとても豊かなものだが、一方で猫が経済的な価値に簡単に変換され、かねてより一部の「猫カフェ」等に見られるような虐待や搾取も危惧される。

筆者個人、猫の愛らしさを求める欲望を人並みに持っており、SNSなどで猫の画像や動画を見ると思わずタップしてしまうからこそ、こうしたコンテクストへの危機感と、SNS上で同じコンテクストを(オタクが勝手に共有する)『Stray』のブームにも警戒心があった。

だが実際にプレイすると、この作品はそんな軽率なコンテンツではなく、溢れんばかりの猫に対する愛情、いやそれを超えて、猫を人間的な支配から解放された「生物」とみなす敬意が溢れているのだ。

『Stray』は猫という恰好のモチーフを使うからこそ、猫に対する人間の欲望と切実に向き合い、昇華した作品なのである。


猫が人間から自由を取り戻すための道のり

まず『Stray』の特徴として、「人間の不在」というものがある。

『Stray』ではサイバーパンクふうの世界で、人間は遠い過去どこかへ行ってしまい、代わりにロボットだけが地下へ残されている。猫はこのロボットたちと協力しながら地上、アウトサイドへの帰還をのぞむ。よってこの世界で猫は、人間に飼育されるペットではない。

タイトルの「Stray」は日本語にするとそのまま「野良」であるように、猫は自立した生物として存在している。

猫は本来、家畜である。現在の猫、生物学的にイエネコは人間によって家畜として活用されており、元々農耕民族となった人間たちの穀物をネズミなどの害獣から守る存在として、古くは古代エジプト、日本でも弥生時代から飼育されたとされる。中世から次第に愛玩動物として飼育されるようになり、現代では様々な血統種がペットショップで売買される。つまり我々の知る「猫=イエネコ」は本来、人間が半ば人工的に生み出した生物なのである。

ここにきて、ようやくサイバーパンクとロボット、そして猫という、本作の突拍子もない世界観の共通点を見いだせる。

というのも、本作に登場するロボットもまた、猫と同様に人間によって人工的に作り出された生命だからだ。ストーリーを追うと、本作に登場するロボットたちは元々人間によって清掃などを目的に設計されたものだったのが、人間が消えてしまって以来、少しずつ人間らしい感情や人格を培っていき、今のサイバーパンク的な街並みで自立した生活を送っている。

このようにロボットと猫は、ともに人間の被造物でありながら、支配者たる人間が消えたことで、相対的に自由で自立した生き物だ。

だからこそ、両者の間には格差がない。ロボットは猫を一部を除いて飼育も搾取もしない。両者は人間という親から生み出された兄弟のようなものであり、その人間が消えた世界で、彼らはお互いが対等な存在として尊敬し合う関係にある。

特に本作で興味深いのは、奇妙な生命体「ZARK」だ。ZARKは異様な形をしたモンスターで、猫やロボットを襲う。うっかりすると猫が彼らに食い殺されてしまう悲惨な展開もあり、「かわいい猫」を期待する人には邪魔にすら映る。けれど、繰り返すように猫はStray=野良であり、人間の庇護を受けない猫はえてして過酷な生態系の競争を生き延びなければならないものだ。ZARKはStrayとなった猫が得た自由と、その代償である「生存競争」を通じ、その両面から「人間からの自立」を描いているのである。

さらに物語の中盤では、ZARKもまた人間たちの大企業が人工的に作り出したバクテリアであり、彼らが大企業の意図に反して増殖した存在であることが明らかになる。つまりZARKですら本質的には猫とロボットと同じ人工物であり、上を見れば彼ら三者が封じられたこの地下世界もまた人間の巨大シェルターであることが理解できる。既に人間が去って相当の時間がすぎた地下にあって、人工物ばかりで構築された世界に、唯一人間だけがいないという、極めて倒錯した生態系が本作を通底する哲学をよく表している。

猫とゲームという現代的に極めて煽情的なテーマを持つ本作は、「人間」の被造物としての地下世界、そこに生きるロボットと、闖入者たる猫、そして彼らと生存をかけて戦うZARKを通じ、人間から独立することへの徹底した意義と、そこから転じて新たに彼らが自由に世界を作ろうとする哲学を描く。

家畜である「ネコチャン」に向けられた「欲望の目線」は、そんなゲームプレイを通じて「尊重の目線」へと昇華するのである。


言葉で猫を支配することの矛盾と贖罪

ここからはエンディングのネタバレを含め、もう少し踏み込んだ考察を踏まえて批評をしていこうと思う。

冒頭に引用した『我輩は猫である』が雑誌に公開されたのは1905年のことである。当時の大日本帝国は前年、1904年から日露戦争に突入し、全体主義の気運が高まる時世だった。言論統制により国家や社会に対するネガティブな意識は排除され、文壇もまた苦境に陥った。本作は「猫」の立場から、当時の日本人には指摘できなかった日本社会を痛烈かつ愉快に指摘せしめたことで高く評価された。

「せんだってじゅうから日本は露西亜と大戦争をしているそうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本贔負である。出来得べくんば混成猫旅団を組織して露西亜兵を引っ掻かいてやりたいと思うくらいである。」

夏目漱石『吾輩は猫である』

よってこの作品は「猫文学」であると同時に、猫の目線を借りて人間を相対化する「人間文学」と考えられてきた。

大体、猫が「矮小」なんて言葉を知るはずがない。まして自分のことを「吾輩」などということもありえない。ひょっとしたら「自分」や「I」に匹敵する何かを伝える能力はあるかもわからないが、あえて「私」でも「俺」でもなく「吾輩」という一人称を好むセンスは、人間それも日本人をおいて他にない。

人間の遺伝子のように、ロボットには言語が組み込まれている

根本的に、体系的に言語を使える動物は人間だけだ。またソシュールが指摘するように、各地の人間は、各言語によって価値や概念を恣意的に区別し、「言語の体系」を作り出した。よってイギリス人が英語を話すことで理解する概念、日本人が日本語を使うことで伝達する概念は、それぞれ異なる。

例えば、日本語でやけに一人称が豊富なのは、日本の庶民がそれだけ体裁にこだわったのが理由の一つである。目上の人間を前にすれば「わたくし」と自称して恭しい態度を表す。ちょっと傲慢に振る舞うなら「吾輩」となる。体裁に日本人ほどこだわらない英語圏では「I」で統一されるが、代わりに「chair"man"」など男性性と結びつけられた単語が今では問題視されている。ディストピア小説『1984』では「自由」などの言葉が抹消された「新言語」が制定されることで、人々は「自由」という概念そのものを理解できなくなっている。

このように我々人間は言語で「価値」を区別し、また区別される。いくつも言語で区別された「価値」はやがて国家社会となり、我々の生活や思想までも支配する。古典的な構造主義では少なくともこう解釈する。

では、言語を持たない猫は、一体何を考え、何を思うのだろうか。言葉を使う人間と、言葉を使わずコミュニケーションをする猫は、もっと根本的に、致命的に、認識できる世界が異なるだろう。「神」が「god」が同じ意味でも別の概念であるように、猫は「ちゅ~る」を信ずるのかもしれない。

その点、『吾輩は猫である』における「吾輩」は、「言葉を識る猫」という「矛盾した存在」として、言語の支配とその枠外の境界から、愚かな人間たちを見守る。そこに本作の肝がある。


さて『Stray』の野良猫は、日本語を巧みに使って日本社会を批評する「吾輩」と対極的に、言葉を理解できない。その代わり、言語を理解できる存在として、野良猫に寄り添うロボット「B-12」と、「B-12」の話を聞いてコマンドを入力する「プレイヤー」のような人間が、「野良猫」を誘導することでゲームを進める。

例えば、『Stray』の序盤、チュートリアルにあたる部分で「ニャーと鳴くには<任意のキー>を押す」という指示が出る。言われた通りにプレイヤーが<任意のキー>を押すと、本当にニャーと鳴く。かわいい。筆者の知る限り最高のチュートリアルの一つだ。一瞬で自分が猫になった気になれる。英語だと「Press <key> to Meow」となる。英語圏の人間は間違いなく<key> を押すだろう。そして自分が猫になった気になるのだ。

ところがよく考えると、「ニャーと鳴くには<任意のキー>を押す」と言われて<任意のキー>を押すのは、日本人だけである。もっと細かく気を配ると、「ニャーと鳴く」という「翻訳」が実によくて、単に「鳴く」よりもよっぽど「鳴いてみたい」と思わせる具合だ。それでいて、「押す」という訳もまたいい。まるで押しても押さなくてもよいけど、「誰だってニャーと鳴いてみたいだろ?」というニュアンスが言外にある。

一方で英語だと「Press」の命令文に「to Meow」の不定詞だ。筆者は英語のネイティブスピーカーではないが、日本語よりは単刀直入に「キーを押せ」「押してみろ」というニュアンスに聞こえる。英語ではそのように伝える方がきっと「猫」の気持ちに近づけるのだろう。

前者はどうしようもなく日本人的な感性であり、後者はやはり英語圏の感性だ。我々が普段から培ってきた言語による影響、価値の体系があってこそはじめて「押す」と言われて「押したくなる」し、彼らは「Press」と言われて「want to press」となる。散々『Bioshock』などで匂わせた展開だが、要はビデオゲームとは、「言語の体系」を通じてプレイヤーの行動を誘導し、ひいては支配しているのである。そしてプレイヤーもその方が「楽しい」から、自ら「言語の体系」へと身を投げ入れるのだ。


しかし、ふつう猫は言語を理解しないから、言語によって支配することはできない。現実に生きる猫は自由きままで、意味もなく立ち止まったり、進んだり、鳴いたり鳴かなかったりする。飼い主が「○○せよ」と言っても無駄である。そこで『Stray』はどう解釈したかといえば、「言語」を理解するプレイヤーがコントローラーで「入力」することによって、「言語」を理解できない野良猫を「誘導」させるという解釈をしている。

本作の構造的な限界は、実はここにある。言語の支配を受けない猫が、言語に支配されたプレイヤーの「入力」によって、妙にきびきびと目的を持って動いてしまう。誰かに助けを求められたから助ける。道に先があるから進む。それはいかにも「人間」の発想であって、猫の発想ではない。(飛躍や露悪も目立つが)この記事でも指摘される通り、『Stray』は人間が遊ぶゲーム的な都合にあわせ、画面内の猫が、その人間的な考えに付き合わされているような違和感がある。

この違和感はロボットの相棒「B-12」と合流して以降ますます顕著になる。「B-12」は猫と共に地下世界からの脱出を目論む存在で、点在するロボットが独自に発明した言葉を「翻訳」してくれる。ここが妙な話で、ロボットの言葉を翻訳すると、それは英語ないし日本語となるのだが、猫にとってロボット語と同じように人間語もわからないはずだし、そこに何の感傷も持たないはずなのだ。

かたや「B-12」はしっかりとした使命感で動いている。曰く、彼は実はかつて人間であり、ZARKを含む地下世界を自分たちの都合で苦しめた罪を背負っている。その「B-12」の使命感は、彼が翻訳した様々なロボット語や、ちょっと生真面目な台詞、つまり言語を通じてプレイヤーにも流れ込み、プレイヤーに猫をニャーと「鳴かせ」、猫を世界の外側へと誘導させている。

野良猫にとってみれば、B-12の使命にしろ、B-12に感化されたプレイヤーの入力にしろ、全く関係のない話だ。言語の支配を受けず、ひいては人間的なあらゆる価値観や概念に縛られない猫は、人間と相容れるはずがない。別にスラムに落ちたなら、スラムでそのまま過ごせばいいし、太陽の光を浴びられなかったとしても、ネオンの光を楽しめばいい。猫は多かれ少なかれ、そういう生き物だと思う。

「B-12」の存在意義はまずプレイヤーの誘導、そして物語唯一の「人間の登場人物」にあるが、彼が牽引する物語の行方は人間らしく陳腐だ。しかもメタな見方をすると、「B-12」がこの世界からの脱出を目論む筋書きが、ビデオゲーム固有の「一度始めたゲームはクリアするべきである」というゲーム的な構造をなぞらえているようで、つまりプレイヤーを物語的、構造的に楽しませるためのチュートリアルとして導入されている。こうした人間の理屈と、野良猫の理屈は、言語の有無によって矛盾してしまう。


こうした「B-12」をはじめとする言語に支配には残念だった一方で、本作は明らかにその「言語」の限界に自覚的である。恐らくはゲームを成立させる以上、やむを得ず「言語」を導入せざるを得なかったが、本心ではより純粋な猫的な体験を尊重したかったのではないかと思わせる点も、多数ある。

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