銃と狂気とホモソーシャルの楽園 『Escape from Tarkov』批評
昨年から、ずっと『Escape from Tarkov』というゲームに囚われていた。
ロシアのサンクトペテルブルクにある、100人にも満たないインディペンデントなスタジオが作っているMMORPGで、リリースから4年もかかっているのに未だ公開ベータが終わっていない。バグも多く、サーバーも貧弱で、そのくせ開発陣はどうにもいい加減だが、それでもこのゲームがどうしてもやめられない。Escape(脱出)することができないでいる。
どうして、わたしはここに囚われているのか。Tarkovでなければ得られないものはなにか。
きっと、狂っているからだ。それもただ独特な一人用インディーゲームなのでなく、無数の人間が参加して物語を作り上げていく、MMORPGならではの狂気だ。ロシアの開発者たちはもちろん、この楽園で遊ぶロシア人も、アメリカ人も、日本人もすっかりおかしくなり、正気を失って、饗宴に興じている。それがまったくの、異例なのだ。
では具体的に、何が狂気といえるのか。この楽園における狂気の根源は、ずばり銃、喪失、そしてホモセクシャルだとわたしは考える。そしてこの根源について、この記事で述べていこうと思う。
今回はいつも以上に長大な記事となるが、やはりどう書き直してもこの狂気と欲望と悪意がうずまくゲームの実態をレポートする上では、やはり1万字は最低必要だった。その分、既にタルコフに囚われた者も、名前すら知らなかった者も、間違いなくまだ日本ではほとんど伝わっていない、恐るべきゲームの一端を知ることができるはずだ。
廃墟のグラフィックから喪失のゲームデザインまで 徹底したリアリズムを描くTarkov
『Tarkov』はMMORPGである。一見してFPSだし、実際ゲームのカメラは常に一人称視点にあるが、開発スタジオのBattlestate Gamesはあくまで「FPSやRPGの本質を踏襲したMMORPGだ」と説明しているし、私もそう感じる。このゲームがどうみてもFPSだと感じるのは、我々がMMORPGに対する、ある偏見を持っているからだ。
つまりMMORPGはたいてい、超自然的な世界観を共有しているはずという偏見である。
思い返すと、多くのMMORPGのモチーフは大きくわけて2パターンで、1つはヨーロピアンなハイファンタジー、もう1つが宇宙を舞台にしたSFだ。
ハイファンタジーといっても現代風だったり、SFといってもサイボーグ忍者が主体だったりと味付けに違いはあっても、結局のところ「ファンタジー」は共通している。
ではどうして、MMOはファンタジーに立脚しなければいけないのか。その理由を以前、FF14の世界観を設計した織田万里さんは「みんなが想像しやすいから」と話していた。
確かに、MMORPG、文字通り「マッシヴなオンラインRPG」においては、参加する誰もが共通の価値観を持っていて、その上でロールプレイをしなければ成立しない。誰もがなんとなく想像できる、ファンタジーの虚構性がなければそこに馴染めない異邦人が出てきてしまう。
しかし『Escape from Tarkov』は、ファンタジーからは程遠い。ここは、紛うことなくロシアだ。
初心者が最初に使う武器はAK-74で、廃人たちはエクスカリバー的な剣の代わりに、Magpul社(実在する)のパーツでカスタマイズしたAR-15に、タングステン芯の徹甲弾をたらふくマグに装填して闊歩している。
回復するにも瓶に入ったポーションでなく、Salewa社が実際に販売している救急キットで、腹が減ればドロドロに液状化したビーフシチューの缶詰をほおばり、賞味期限の切れた牛乳で流し込んでいる。
気になって調べたら、人気マップ「Interchange」のショッピングモール「ULTRA」は実際に「MEGAモール」としてサンクトペテルブルクにあって、同じくマップ「Shoreline」の保養所もストレリナという地に1日1600ルーブリで宿泊できる安宿として実在する。
ファンタジーどころか、まったくのロシアだった。マップのうち、ロケーションの元ネタの多くが開発スタジオと同じペテルブルグにあって、彼らは自分たちの地元をそのままバーチャルロシアとしてMMORPGに再構築しているのだ。
(開発スタジオいわく、厳密にはTarkovは「2028ーロシアユニヴァース構想」に基づくファンタジーらしい。ゲームの舞台もどう見てもペテルブルクだがタルコフと呼ばれ、この一帯はロシア連邦政府により経済特区として開放、そうして進出した西側資本の製薬企業「Terra Group」による人体実験が明るみとなり、各陣営のPMCによる衝突が激化した末、ノーマンズ・ランド(無人地域)と化した設定がある。だから現代であっても、銃器を持ち歩き、手榴弾を投げてもいいことになっている。)
そのうえ、Tarkovのリアリティが優れているのは、テキストやアートのリアリティのみではない(それも十分リアルだが)。Tarkovのリアリティはゲーム性に宿っている。
ではこのようなリアルなロシアで、プレイヤーは何をすればいいのか。このゲームのルールは、基本的にスカベンジング(ゴミ漁り)だ。
このタルコフ市一帯の軍事基地、税関、研究所などの地域に赴き、そこで金目のものを見つけては回収し、無事に帰還し、国境付近の汚職士官や闇業者に売って現金化する。この繰り返しだ。よって他のプレイヤーと勝敗をつけるような競技性は、そこにない。ただ物資を回収する目的達成のため、限られた物資を独占する意図で、「やむをえず」敵を排除しなければいけないと「自ら考え出す」プレイヤーを、ルールから作り出している。
だが、Tarkovにおける最も強烈なゲーム的リアリティは、こうした必要に駆られたプレイヤー同士の銃撃戦の末プレイヤーが死亡した場合、プレイヤーは所持する銃、アーマー、バッグにいたるすべての所有権を放棄する……そして、他のプレイヤーに奪われるリスクが生じる点、つまり「ロスト」にある。
この「ロスト」が、最も痛烈に、そしてユニークな体験となるのは言うまでもない。自分が命からがらゴミを漁り、現金化し、ようやく購入した装備を全て失い、そして奪われる……。この絶望は計り知れない。
意地の悪いことに、このゲームは兼ねに糸目をつけなければ、本当にあらゆる装備や物資を、自分好みに調達できる。アーマーや銃は言わずもがな、弾薬、アタッチメント、医薬品に加え、サングラスや帽子など戦略的アドバンテージのない要素まで、全てだ。そうやって自分が必死に集めたものを、どこの誰ともわからぬ輩に奪われてしまうのである。
それは、悲しい。何度体験しても、拭いようのない悔しさを、わたしたちの臓腑に与えてくれる。そしていつ死に怯え、狙撃兵を探そうと何度も瞬きし、銃声や足音が聞こえる度に心拍数が跳ね上がる。
このスリルは他のどんなホラーゲームにもない。既にTarkov何千時間をプレイし、プレイする行為自体を生業とする配信者たちでさえ、死亡した時は思わずストレスを表情や言葉にし、悲痛さを表現する。同時に、敵から奪った瞬間の喜びもまた格別なのだが。
ところで『Tarkov』の出生地ロシアは、なにもAKとウォトカだけの国ではない。文学の国でもある。
そのロシア文学の祖父とも呼ばれるニコライ・ゴーゴリの代表作『外套』をご存知だろうか。ペテルブルクの小役人が上司や周囲のパワハラに耐えながら、なけなしの貯金で一張羅の外套を仕立てるものの、無残にもたった一晩で暴力的な強盗たちに外套を奪われた末、失意のあまり凍死し、亡霊となって今もペテルブルクをさまよい、外套を奪っている、という話である。
これが驚くほど、Tarkovの体験に似ているのだ。最初は虚弱で、ろくな装備もなく、おっかなびっくりで戦場を歩いていると、わけもわからぬうちに何度も何度も殺される。だが、殺され続けるうちに今度は自分が殺せるようになっていき、いつしか被害者であった自分は加害者として、永遠にロシアをさまよう……。
もちろん、これはシングルプレイのような意図した演出や誘導があったわけではない。あくまでTarkovが提供するのはシステムと世界であり、そこでプレイヤーが何を感じ、どう行動するかは自由である。なのにわたしたちは得てして、弱々しい生者から、禍々しい強者への転生を繰り返す。これこそ、「ゴーゴリ的ゲームプレイ」と言ってもいいだろう。
(かのドストエフスキーは、「我々は皆ゴーゴリの『外套』から生まれ出でたのだ」と言うほどゴーゴリと『外套』を高く評価している。)
むしろ、多くにシミュレーター的な「リアルなゲーム」は、そのテキストやグラフィックに対し、むしろゲームとしての駆動部においては、意図的に解像度を落としている。『GTA』で市民を虐殺するような下品なプレイは、リアルな世界で荒唐無稽なことをあえて実行することで、むしろゲームの虚構らしさを自らえぐり、安心したり笑ったりして楽しんでいるのだと思う。
Tarkovは違う。文字や映像が定義するリアリティに対して、ゲーム部分においてさえ、プレイヤーがヘラヘラと笑う余裕を一切作らない。笑おうものなら、ひっぱたかんばかりに、Tarkovはプレイヤーが大事に集めた装備を、喪失させる痛みを強要する。望んでもいない戦いを強要させる。手榴弾が転がる、カラカラ、という音の恐怖で眠れなくする。そしてMMORPGの、マッシヴな規模で、その恐怖や苦痛を想起させるリアリティを、共有させる。共有させた上で、互いに殺し合わせている。不平等極まりない戦いで、敗北の屈辱を、このゲームをプレイした者は皆味わうことになる。
総じてTarkovは、従来のMMORPGとはまったく異なっている。なるべくたくさんのプレイヤーに集まって欲しい、だからみんなが想像しやすいファンタジーの世界を作るのではなく、アメリカや日本では到底想像もできないような、現代の紛争地域におけるリアリティをありありと描き、それに興味を持つ、共感ができる人にだけプレイしてもらう。そのうえ、ゲームプレイとしても、喪失という悲痛な体験によってそのリアリズムをプレイヤーの脳に焼き付ける。
誰のためのリアリズムか 私的MMORPGとして
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