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『トップガン マーヴェリック』はなぜ面白いのか?「中年の欲望」から面白さの本質を紐解く

本稿は『トップガン マーヴェリック』のネタバレ、また「絶賛ではない評価」を含みます。

配給:東和ピクチャーズ © 2022 Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.

『トップガン マーヴェリック』(以下、マーヴェリック)は面白い。筆者も3度、劇場で鑑賞した上で、恐らくこれほど現代で求められる欲望を満たした「エンタメ」は、ここ5年でも存在しないのではないかと思った。

ただし、ここでいう「麻薬のような面白さ」とは単なる誇張表現ではない。本作における「面白さ」の正体とは、単に美しい映像表現というだけでなく、現代に生きる中年の欲望の充足であったり、現代の国際政治に対する極めて都合の良い解釈こそが「面白さ」の本質に大きく関わっているという点を鑑みて、むしろ皮肉としての「面白さ」をここでは論じたい。

そもそもの話。

『マーヴェリック』に限らずエンタメ全般を「深く考えないで楽しめるもの」とする定義に、筆者は常日頃から批判的だ。

舌の味蕾を通じて脳が「うまい」と感じるように、どんなに面白いエンタメであっても、面白いと思わせる努力があり、情熱があり、論理がある。『マーヴェリック』の「面白さ」についても、単に情熱や予算の多寡ではなく、そうしたリソースを限りなく「今、観客が求めているもの」に徹底してつぎ込ん(でしまっ)た結果である。

この筆者の疑念は、本作の評判からも観測できる。高橋ヨシキが「こんぐらいのちょうどいい娯楽映画にみんな飢えていた」「大事な哲学的なこと言ってるのが0だから」と言うように、映画ファンはおろか批評家ですら「深く考えずに楽しめるもの」という論旨で評価している。作中の「考えるな、行動しろ」のセリフにアジられてしまったように、反論の可能性を「エンタメだから」というトートロジーで封じる思考停止の論調は、却って本作の持つ「エンタメ」の本質が並大抵でないことの裏返しに思う。

少子高齢化によって閉塞していく現代社会。そこにあって、特に中年男性の立場から最適解の「エンタメ」となった『トップガン マーヴェリック』。本作の「面白さ」を功罪の立場から紐解きたい。


まず、『マーヴェリック』の前作にあたる『トップガン』(1986)の評価から始めたい。『トップガン』は映画史におけるブロックバスター的な作品、つまりハリウッド流エンタメの代表的な作品である上に、批評においてもライムスター宇多丸が「前作を完全に凌駕した」と評するように、「『マーヴェリック』は『トップガン』を超えた」という評価が多数派だ。

言い換えれば、『マーヴェリック』を観て感じる「面白さ」は『トップガン』の「面白さ」を延長させながら、それでいて現代に必要なエッセンスを加えたものだと考えられる。

では『トップガン』はエンタメとして面白いのだろうか。結論から言えば、『トップガン』は今見るとかなり「古い」映画なのは間違いない。これは単に技術が古いというより、その80年代の観客に向けた「面白さ」が2020年代では共感しづらい点にある。しかし、本作は「古さ」と同時に「懐かしさ」も感じられる。80年代の観客に向けられて先鋭化した本作は、その時代にならではの思想や演出が多く籠められており、現代で共感することは難しくとも、その魅力を理解することはできるという点で、「懐かしい」のである。


例えば、『トップガン』の「古さ」の一つに、まず家父長的な男性優位のテーマを指摘できるだろう。主人公マーヴェリックはF-14に乗り込むエリートパイロットとして、精鋭のみ集められる「トップガン」に召集される。そこでアイスマンら男性パイロットと切磋琢磨しながらも、相棒のグースの死を契機に挫折し、再び復活していく過程が描かれる。

物語は徹底的に男性中心の世界で描かれ、ホモソーシャルな情念が通底する。パイロットたちが半裸でビーチバレーに興じるシーンはさながらポルノのような目線であるし、仲間たちが最も親しみ深く語り合うのは男性専用のロッカーで、時に「(勝負に負けた2番手は)女性用トイレに名前を刻むからな」という際どいジョークが挟まれる。極めつけに、マーヴェリックの心を折るきっかけとなるのも、相棒のグースの死だ。物語は徹底して男性によって駆動する。

ヒロインとして登場するシャーロットも、主人公が女性用トイレまで追いかけて迫るという現代では許容しがたいロマンスに始まる割に、実のところマーヴェリックへの影響は軽微で、グースの死を受けた彼を再起させていない。むしろ重要なのは、グースの妻であるキャロルだ。キャロルと向き合う直前、自分が彼女に何と伝えればいいのかと逡巡した末に、マーヴェリックはグースの死を受け入れ、戦場へ赴く。

こうしたマッチョイズムは現代となっては「古さ」が否めないものの、一方でマッチョイズムを臆面なく描くからこそ、マーヴェリックの繊細な男性的精神を描くことにも成功している点では「懐かしい」とも感じる。具体的には、エリートパイロットとして無茶ばかりをするマーヴェリックが、実は消えた父親を探し求める飢餓的な愛情によって動かされ、そこで相棒であるグースまで喪うことで、致命的なまでに心が壊れていく様子は、マーヴェリックのようにマッチョさで武装した人間にしか描けない心の繊細さを、およそ現代の戦争映画にない解像度で描けている点は特筆に値する。

単に演技や脚本のみならず、冒頭の「Danger Zone」から作品全体を貫くマッチョイズムがエンタメとして包括されているからこそ、その中で本音を隠し、耐え忍ぶマーヴェリックの青い男性性が美しく描かれるのである。それは「古い」ながら、現代では描けない「懐かしさ」と評するべきだろう。


もう1つの、『トップガン』の「古さ」として指摘せざるを得ないのは、自国の軍隊を他国に配備し、軍事作戦を展開するアメリカ的な覇権主義(ヘゲモニー)を全面的に肯定しているテーマだろう。

本作のマーヴェリックの愛機、F-14はベトナム戦争から湾岸戦争までアメリカ海軍の制空権の担い手となったもので、彼の精神は架空のMiGとの戦闘を経て再生する。このアメリカ海軍の軍事的成功をカタルシスに据えた本作は、率直に言って明確に冷戦下におけるアメリカの政治的、軍事的な帝国主義の側面を無批判に反映したもの、要するにプロパガンダ的な性質を否めない。そもそも『トップガン』はアメリカ海軍の全面協力(F-14の貸出や空母での撮影)のもと撮影が実現している以上、そこにアメリカの政治的、軍事的な疑問を挟む余地はない。

なお、こうした政治的な欲望を指摘する批評には必ず「それは深読みのしすぎでないか、本作は政治的に無縁の娯楽映画だ」といった反論が予期されるために述べておくが、辻田真佐憲『たのしいプロパガンダ』にあるように、大衆は(自分に都合の良い)政治や社会テーマについて十分関心があることは、SNSのトレンドを見ても明らかであり、娯楽は政治と無縁どころか、本来むしろ親しいものである。

(誤解されがちとは、本来プロパガンダとは「権力の当事者による創作」を指すもので、単に権力に阿る作品を指すわけでない。本作は製作に強く米軍が関わっており、本来的な意味でのプロパガンダといえる。)

しかし、このプロパガンダ的な危うさでさえ、単に「古い」というより「懐かしい」と筆者は感じる。それは作品の内容ではなく、1980年代という背景に準ずるものだ。

まず、アメリカの外交を考える上で1945年に遡ってみよう。当時、第二次世界大戦により、西欧の植民地支配は破綻。代わりにアメリカが台頭し、欧州へのマーシャルプラン、そしてNATOによる軍事同盟を展開し、ソ連(東側諸国)との防衛圏を築いた。米ソが覇権を争う冷戦の時代である。かくしてアメリカは世界の「西側」、NATOの盟主……「兄貴分」としてアメリカ軍はベトナムなど政治的不安定な国々に膨大な費用と人命を投じて介入し、「鉄のカーテン」を維持した。

更に1981年、大統領に選ばれたロナルド・レーガンはこの「兄貴分」的な姿勢を、一層強固なものとした。彼は「強いアメリカ」を掲げ、「戦略防衛構想」(通称:スターウォーズ計画)など膨大な軍事費を投じた作戦を展開。その結果、1985年にソ連の書記長として任命されたゴルバチョフとともに「中距離核戦力全廃条約」などの軍縮にまで取り付けた。冷戦の終結も早まり、核戦争の恐怖が一時的に後退したのも、この1980年代のアメリカだ。

アメリカの外交に決定的な影響をもたらしたレーガン大統領

つまり、当時のアメリカはF-14など自国の圧倒的な科学力と経済力の粋と言える兵器によって、日本を含む西側諸国に広い安全を保障していた時代、アメリカによる平和(パクス・アメリカーナ)をもたらした。マーヴェリックが亡き父から形見として着ているG-1ジャケットの「アメリカ、日本、台湾、国連」の旗をかたどったワッペンは、まさにその象徴。よって『トップガン』が公開された1986年、アメリカの庇護下にあった日本を含む西側諸国において、本作を自分たちの平和を噛み締めながら「娯楽」として信じえた、「懐かしい」ものだった。

もっとも、このパクス・アメリカーナは、南米や中東、そのほか「東側諸国」の犠牲の上に成り立っていたことは否定の余地がない事実であり、彼らの立場から見れば本作の無邪気な正当化は看過できない。『機動警察パトレイバー2 the Movie』(1993)で荒川が「正当な代価を、よその国の戦争で支払い、そのことから目をそらし続ける不正義の平和」と当時の日本を指摘したように。


ここまで省みたように、1980年代に公開された『トップガン』は今見ると「古い」。軍人や兵器をただ美しいものと描き、アメリカの戦略をただ正しいものと描く。現代どころか当時の価値観でも、極めてセンシティブなテーマを扱いながら配慮に欠けるとの視点はあっただろう。

しかし、マッチョイズムの影に戦場に赴く青年のセンチメンタルを抉りだしたり、レーガン時代の「強いアメリカ」が実現したパクス・アメリカーナの全能感の反映を考えると、決してただ「古い」ものではなく当時しか描けないものとしての「懐かしさ」を含んでおり、観終えると青春映画を見たような爽やかな気持ちになる、極めてアクロバティックな作品なのだ。

さて、「ようやくか」と思われるだろうが、ここで議論を『マーヴェリック』に戻そう。繰り返すように、『マーヴェリック』は『トップガン』の正統の続編であり、更に『トップガン』を超えたとも批評家に言わしめる作品だ。であれば、ここに挙げた『トップガン』の「古い、が、懐かしい」要素はどのように変化し、あるいは新しく作られたのだろうかを考えていこう。

まず本作は『トップガン』の続編としてその構造を実直にオマージュしている。戦場、訓練、そして戦場という三幕構成はもちろんのこと、「ビーチアメフト」ではしゃぐパイロットたちのジュブナイル、例によってアメリカ海軍全面協力による「F/A-18E/Fスーパーホーネット」を使った政治的力学、そしてアメリカの対外攻撃を全面的に肯定する戦闘シーンのカタルシス。他にもビーチバレーならぬビーチアメフトのシーンなど、膨大なオマージュが盛り込まれている。

このような正当進化な本作だが、大きな変化が2つある。奇しくもそれは、筆者が先に挙げた2つの論点、つまり「マーヴェリックの精神」そして「アメリカの外交姿勢」だ。エースパイロットたちを「トップガン」の訓練を通じて青春ドラマのように描きながらも、戦闘を勝利することでカタルシスに至る大筋はほとんど変わらないのに、この2点に関する変化こそ、本作の「麻薬的な面白さ」の根拠となっている。


マーヴェリックの「中年的な欲望」を包み隠さずに描くことの代償

本作で唯一大きな変化があったのが、主人公マーベリックの立ち位置だ。前作『トップガン』におけるマーヴェリックは繊細な青年として描かれていた、一方で今作のマーベリックは50代の中年となっており、それによって肉体的な限界と無人機の到来、そしてグースの息子を含む人間関係などに焦りを覚える。マーベリックは典型的な「中年の危機」に陥っており、これは青年をテーマとした前作との大きな相違だ。

かつて『トップガン』の娯楽的な面白さを担っていたのは、明るくも逞しい「青年」マーヴェリックの魅力だ。その上、トムのはにかんだ笑顔と艶のある肉体、そしてF-14を乗りこなして「敵」を撃退する英雄的な「青年」の姿は、当時同じくアメリカ青年たちの羨望の的であり、彼に憧れてアメリカ海軍には志願者が殺到したという。青年が挫折し、成長しながら、ついに敵を打ち倒すのは古典的なビルドゥングスロマンの典型であり、『トップガン』は実に王道的な「娯楽」と言える。

一方、本作のマーヴェリックはあれから36年経過し、中年になっている。その上で、マーヴェリックは決してその中年という年齢に甘んずることはない。物語の冒頭では美貌は未だ衰えず、肉体も艶を保ったまま、彼は超音速機でマッハ10の壁に挑戦する。安易に考えれば、当時青年だったマーヴェリックに憧れた観客が今では中年であり、そんな彼らにとって未だ「中年が現役で戦える」というポジティブな姿を見せるマーヴェリックは、彼らが新たに憧れ、尊敬できる、高齢化社会ならではの「中年ヒーロー」だと考えられるだろう。

ところが「中年」に差し掛かったマーヴェリックは、前作で「グースの死」と「父の失踪」にまとめられた青年マーヴェリックよりも、多くの課題を抱えている。一つは、無人機の登場、肉体的な限界による現役引退の可能性。もう一つは、グースの息子であるルースターとの関係修復。他にも、旧友アイスマンの死による軍での孤立や、教官としての能力不足、別れた女性との復縁など、実はマーヴェリックは典型的な中年の危機に差し掛かっている。同時にそれは、青年だったマーヴェリックが持ちえない立場、財産、人間関係などの財産に基づく、「欲望」とも言い換えられる。給料が増えて税金対策を考えるのと同じように。

ではこの問題を打破する上で、青年と中年のマーヴェリックはそれぞれどう対処したのか。前作の青年マーヴェリックであれば、「父親の失踪」は教官であるヴァイパーの言伝、そして「親友の死亡」はグースの妻による激励など、「青年」を暖かく見守る「大人」や「友達」の支援によって、自らを奮起させていた。

中年のマーヴェリックはこれに対し、2つの対処法を使う。1つは自分の伝説的なパイロットとしての実力を誇示し、周囲を説得させること。もう1つが、青年と同様に周囲の支援を「動員する」ことだ。

まず前者の対処が本作の大きなカタルシスに繋がる点は、言うまでもないだろう。「無人機の到来」に対しては、自らを鍛えマッハ10の世界へ挑む。ルースターや後輩からの敬意を得るために、不可能と思われた限界飛行へ挑む。自らの圧倒的な実力で周囲を説き伏せ、反論の余地をなくしてしまう。冷静に考えると強引な展開だが、一方で実際にアメリカ海軍のF/A-18を使った圧巻の映像美、そしてパイロットとしてのトレーニングも受けた俳優陣の演技により、荒唐無稽な物語に現実的な説得力を持たせているギャップが、まさに「娯楽」として文句ない航空映画に仕上がっている。

しかし、いくらマーヴェリックが中年に見合わない実力を持っていたとしても、解決できない問題は他にも多数残る。中でも重要なものが、グースの死に伴って息子であるルースターに責任感を抱いている点……つまり「息子に認められたい」という欲望だ。ルースターにとって、マーヴェリックは父親の死の間接的な原因である他に、入隊を棄却させるなど何度も「立ち塞がった」ことの怒りがある。同時にマーヴェリックにとってそれは、超人的なパイロットとしての能力に対し、(観客も感情移入できる)凡庸な人としての能力でもある。

グースの死はともかく、その後ルースターのキャリアを勝手に変えてしまったのは、「自分はともかく母親まで恨ませたくない」という言い訳を置いても、マーヴェリックのコミュニケーション不足という問題だろう。よって本作でルースターとの関係を修復するには、マーヴェリックがルースターとどう向き合い、対話するかが肝になるはずだった。

しかし実際に行われたマーヴェリックのルースターへの対応は消極的で、自分の過ちを認めたり、理由を話すこともなく、「対話」というに程遠い。その代わり、動員されるのが周囲の若者だ。例えば、ハングマンが「昔の話はよそうぜ」と悪役になってまで2人を焚き付けたり、一方で後輩たちと一緒にビーチアメフトに誘い込むという形で「仲立ち」させる。しかも彼らはマーヴェリックに揃って好意的なので、客観的に見てもルースターは仲直りせざるをえない立場に「追い込まれていく」ように見える。

もう一つ、マーヴェリックの作中の課題として、何度も破局したペニーとの復縁……早い話が、「昔の女とやり直したい」というのがある。しかしこれも、ペニーに対して過去の態度を反省するとか、何か特別の成長を見せるわけもなく、ズルズルと都合よく復縁を迫りながら、極めつけに最初のセックス後に偶然に合わせたアメリアに「二度と悲しませないで」と承認させることで決着させる。常識的に考えれば、アメリアの立場にとって無責任なマーヴェリックの存在は看過しがたいはずが、いとも都合よく支援するのだ。


前作『トップガン』でもこうした人間関係にまつわる都合の良さは否定しきれない点があった。しかし、当時のマーヴェリックは若いが故にヴァイパーのような先達による教育があり、何よりグースの死という過失を自ら飲み込み、グースの妻に向き合う過酷なシーンを通じて成長した。最後のMiG戦のシーンで「Talk to me, Goose(話してくれ、グース)」と相棒の死を乗り越えるシーンは、人間的な成長のクライマックスと言えるだろう。

一方で『マーヴェリック』ではどうだろう。課題はいくつもあるが、それに対して痛烈に向き合うよりも、周囲の、それも若い(弱い)人々を動員することによって事実上解決している。それもそうだろう。マーヴェリックは単に実力があるだけでなく、海軍大将(!)の親友であり、編隊を決める権力を持つ。実際にマーヴェリックが私情に走らずとも、『トップガン』と違って今のマーヴェリックには周囲を否応なしに「尊敬させる」だけの権力がある。その力を無意識といえ使って、自分の問題解決にあたらせ、一方で自分はその力で集まった後輩や恋人によって癒やされていく。

特に人間関係において、本作は前作より極めてマーヴェリックの、中年の主観的な「都合良さ」に満ちている。中年特有の問題が提示され、それを中年特有の権力によって解決する/される。その万能感は、青年によるビルドゥングスロマンにはない、ある種、極めて利己的な都合の良さである。


この矛盾が決定的に浮上するのが、マーヴェリックが当初「教官」として赴任している点だ。マーヴェリックの権力を支えるアイスマンは、私情で彼を守る代わり、「The kids needs you」と彼の技術を教官として後輩に伝えさせることを選択する。ところがマーヴェリックは自分にできないと駄々をこね、最後までその「教官」としての使命ではなく、個人的な人間関係や達成感ばかり追求する。

前作で教官を務めたヴァイパーは、飛行技術だけでなく、血気盛んなパイロットたちを諌めたり、失意に暮れるマーヴェリックに手を差し伸べる中年だった。一方でマーヴェリックはどうだろう。確かに飛行技術は教えたかもしれない。しかしそれでさえ、かなりマーヴェリック個人の技能を強引に叩き込むことで(過酷なミッションから生き延びるためといえ)再現性が薄く、ルースターへの「考えるな」を除けば、具体的な教えは少ない。もっと言えば、ルースターを除く後輩の抱える問題についても踏み込む様子はない。

極めつけに、マーヴェリック自らが実力を示し、何だかんだで編隊長になってしまう点。それはもう、教官としての立場、言うならば大人の責任を放棄しているに他ならないのではないか。後輩を危険な任務から遠ざけたいとも考えられるが、前提として彼らは軍人であることを志願しており、彼らのためにアイスマンに選ばれたのだ。ルースターを身勝手に軍から遠ざけた時と、何も変わらないのではないか。

マーヴェリックはその立場から「教官」として選ばれるが、パイロットしての自己を追求するあまり教官としての努力は踏み込んでいない。更にその実力と立場によって若い人間を都合よく引き寄せ、本来自分で解決するべき課題に対して対処にあたらせる。教官という役割を放棄して、編隊長、ヒーローという役割に返り咲く。

よって本作の「麻薬的な面白さ」の一つは、中年が「大人としての権力を持ちながら」「大人の責任を半ば放棄し」「子どものように(自分より弱い)他者に甘え、万能感に浸る」中年的なドリームの追体験だ。それはまさにアメリカを含む世界的な少子高齢化によって、年代的なボリューム層(主に団塊ジュニア)が青年から中年へと移行した情勢を反映したような、現代ならではのエンタメに思える。

トム・クルーズはパンフレットの中で「責任感」「犠牲」「贖罪」について描いていると語るが、実際本作は「大人であり子ども」な二重基準的な都合の良さに過ぎない。そして同時に、それは限りなく甘美な愉悦でもある。大人の権力を持ったまま、子どものように甘えたい。そんな甘い話が一体どこにある。そうだ。この作品にはそれがあるのだ。

誤解しないでもらいたいのだが、これは「中年は他人に甘えてはいけない」という話ではない。本来権力を持つ中年がその財産を再生産していくという点については再考の余地があるが、重要なのは「麻薬的な面白さ」のロジックを紐解く点にある。これは改めて結論部で論じたい。


アメリカの外交姿勢に対する「戦争は平和」という歴史修正

もう一つ、「麻薬的な面白さ」を生じさせた根拠として、『マーヴェリック』は「ならず者国家(rogue state)」が建設する核施設の爆破を遂行するというミッション、更にアメリカ海軍の全面協力という点で、前作『トップガン』から軍事的・政治的なテーマを継承している。そこに、現代の「敵=正義の不在」を考慮することによって、現代アメリカが外交的にぶつかっている二重基準を反映した点を指摘したい。

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