シン・ウルトラマン批評 異星人は日本に何を期待したのか
『シン・ゴジラ』の後継作、ではない
外堀から固めていくような議論になるが、そもそも本作はエンタメとして申し分なく面白い。構成としては樋口監督・庵野脚本のタッグの「シン・」プロジェクトの成功作『シン・ゴジラ』を正当進化させたような構成になっている。
つまり、長年積み重ねられたシリーズ作品のレガシーを、岡本喜八風の演出とともに継接ぎし、現代的なCG表現と庵野風の脚本をミックスし、その上で戦後・高度経済成長期における原作から大きく変貌した日本を取り巻く環境のテーマとの整合性を図る……この『シン・ゴジラ』で確立した企画は『シン・ウルトラマン』にも継承されている。
具体的に『シン・ゴジラ』では「進化」を通じてゴジラの多様な姿を見せつつ、半ばユーモアを含めつつ日本の軍事・政府の限界を様々な抵抗とともにダイジェストで送り、マクロの目線では東日本大震災を明確に意識した「災害と対峙する日本」を、若き政治家と官僚たちの奮闘とともに克服する構図により、興行収入82.5億円という実写の邦画として異例のヒットを記録した。
『シン・ウルトラマン』も概ねこの構造をのっとっており、冒頭のカットインやオープニング、またところどころの演出から原作『ウルトラマン』のレトロスペクティブによって原作へのリスペクトを示しつつ、歴代怪獣たちとの対決には邦画の限界を忘れさせるようなリッチかつモダンな演出が大胆に行われ、一方でテーマとしては現代日本を取り巻く国際関係などもスポットが当てられている。
総じて『シン・ウルトラマン』は『シン・ゴジラ』における成功を踏まえた設計であることは、疑いようもない。シリーズの古典を現代にて解釈する、その魅力は当時のまま、そのテーマは現代に沿って、前作から引き続き参加した樋口真嗣監督のメソッドが生かされているといえるだろう。
一方、本作には意図的に前作とは異なる価値観、思想が反映されているのも興味深い点である。
安倍政権と岸田政権の変化にみる『シン・ゴジラ』の先見性と楽観性
この『シン・ウルトラマン』の違和感を突き止める上で、まず整理したいのが『シン・ゴジラ』とは何だったのかという話だ。
すでに「シン・ゴジラ論」は出版、ネット問わず多数あり、それらは概ね好意的なものである。しかし筆者として『シン・ゴジラ』が類稀な名作であることを認めつつも、この作品のテーマが現代のほんの僅かに沿わないと感じる点がある。
誤解のないよう断っておくと、私は『シン・ゴジラ』の映画的な完成度を認めざるを得ないし、その娯楽としての魅力は実に何度も劇場に足を運ぶ過程で噛み締めるように認識した。その造形やテーマも素直にフェティッシュとして楽しんだ。
一方、これらフェティッシュを抜きに『シン・ゴジラ』のテーマだけを論じるなら、批評家の中川大地が簡潔明瞭に
と論じた内容が、そのまま作品のテーマに当てはまると思う。
つまり、『ゴジラ』を含む戦後特撮が主に理想として見つめてきた「戦後民主主義の良心」とも言うべき幻想を、『シン・ゴジラ』では高齢化し、半ば機能不全に陥っている日本政府を「総辞職ビーム」してしまったカタルシスを原動力に、今の若い世代にバトンタッチし希望を紡ぐ希望が書き足される。「古い権威」を否定しつつも「新しい権威」を持ち上げる過程に、右翼の保守主義でも左翼のラディカリズムでもない、第三の中立的かつ前向きな理想的な現代日本の総括として日本国内で絶賛されるのは当然の評価だろう。
このように書き出しても『シン・ゴジラ』は改めて完成度の高い作品だと思う。閉塞的な日本社会と逼迫する米中のグローバリズムに太刀打ちできない「古いセクショナリズムの政治」から、若い官房副長官を軸に「新しい官僚と政治家の政治」に塗り替えるのは、2014年10月の内閣人事局の発足に伴った「官邸主導」の手法によって長期政権を実現した安倍政権を見れば、2022年現在もリアリティある「夢」だ。
ただ本作を上質と認めた上で、やはりこの「権威」への執着、つまり霞が関の若者たちが無能な政治家に代わって自衛隊と協調し「戦後の落とし子」たる「ゴジラ」を鎮圧せしめる帰結に、ただの娯楽といえどその希望は楽観的にすぎると感じてしまう。『シン・ゴジラ』が悪いというより、それよりも悲惨な現実が目の前に横たわっていることを、本来は嘆くべきなのだ。
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