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『花束みたいな恋をした』にみる「大人たち」の本質的な”うざさ”

本稿には『花束みたいな恋をした』の全編ネタバレと、批判的な内容が含まれています。ご了承ください。


客観的に言って、今の若者は不幸と言えるのではないだろうか。

バブルが崩壊し、震災が2度襲われ、国際情勢が悪化し、少子高齢化がボトルネックとなり、そこに来てパンデミックとウクライナ危機である。ネガティブな話題はいつの時代も尽きない。ポジティブな話題がせいぜいゲームとアニメとマンガだ(それはそれで幸福だが)。

だがこうした状況の悲惨さをもっとも染み入るのは、恐らく一瞬の悲劇よりも、しみじみと続く絶望なのだと思う。例えば以下のような意見が当たり前のように日夜テレビで流されると、一番絶望するのだ。「うぜぇ」と。

「Z世代の中には「予想もしない展開」は不安で感情を揺さぶられたくない なぜなら疲れるからという人たちもいる」

このように「Z世代」について稲田氏の主張する内容は、既に現代ビジネスなどに掲載されたものを焼き増ししたものだ。曰く、今の若者が「とても詳しいオタクに“憧れている”」など突拍子もない憶測が展開され、その憶測をベースに若者を抽象的に批判し、あまつさえ「すべてセリフで説明する作品が増えた」などとのたまうのには閉口するが(『鬼滅の刃』が説明過剰気味なのは荒木リスペクトなことも知らないのか)、その程度ならよくある「クリックベイト記事」で済むだろう。

だがそれが『映画を早送りで観る人たち』というタイトルで新書になり、テレビ局が「Z世代の中には「予想もしない展開」は不快で、疲れるという人もいる」などと”代弁”させるのは、もはや1人のライターでなく出版やテレビ局が、若者を理解しようとせず、その上で、おじさんの理想や偏見だけはしっかり若者に強要する証拠だ。


最近、常々思うことは若者にとって真の悲劇とは、バブル世代の愚行をそのまま借金として背負わされた経済不況(いわゆる失われた”30年)でなければ、その世代間格差を拡大する他ない政治でもなく、ましてや震災でもパンデミックでもない。

古市憲寿が『絶望の国の幸福な若者たち』で指摘するように「若者批判」は歴史的に続くことといえ、戦後の人口爆発で圧倒的な人数により大人たちを脅かした団塊世代と比べ、現在の若者は30歳未満の人口が全体のわずか4分の1にまで減り、紛れもなく「マイノリティ」にまで押し込められた若者たちが、

ときに、「倍速しか再生できない愚鈍さ」
ときに、「『鬼滅』やインスタ映えなど流行に惑わされる純朴さ」
ときに、「SDGsなどリベラルを自分たちの代わりに推進してくれる利発さ」

それぞれ身勝手に託そうとする大人の、本質的にはセクシャルマイノリティしかり、あらゆるマイノリティが強要される類の「搾取」にある。それは到底「うざい」で済まされるはずがないのだが、あまりにも過酷な現実を辛うじて絞り出すように指摘する言葉が「うざい」ではないのか。

(古市憲寿は率直に「若者を”異質な他者”とみなす言い方は、もう若者ではなくなった中高齢者にとっての、自己肯定であり、自分探しなのである」と断じている)

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近年、この「うざさ」を究極に煮詰めたような映画を見たのを思いだす。そう、『花束みたいな恋をした』、略して『花恋』だ。2021年に公開されると、特にテレビでZ世代を中心に人気と報道されたことで、(邦画にしては珍しく)初日で興行収入は8億円を超える話題となった映画だ。へぇ、どんなもんだろうと実際に見てみたところ、若者をリアルに描くどころか、見事に「おじさん」の描く理想の若者で驚いたのだ。

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