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「ポリコレ」という言葉遣いに対する違和感について

長年ネットを使っていると、「ポリコレ」を巡る議論がもう何度目かわからないけどループしている。

正直、いい加減飽きないのだろうかというのが本音なので、ここで改めて「ポリコレ」とは本来どういうもので、今の「ポリコレ」議論がどうズレているかという整理をした。そして特に今筆者が持つ疑問として「ポリコレを否定する」ことがまさに「ポリコレ」的にTwitterやまとめサイトの(比較的偏ったクラスタでの)議論になりつつあることへの警鐘を含め、できればこれを「最後のポリコレ論」としてまとめたい。


「嘘から出た嘘」――ポリコレの正体

まず「ポリコレ」とは何か、足早に整理していこう。ポリコレとはポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ、政治的妥当性)の略で、「性、人種、国籍もろもろの公正さ」を指すものと「されている」。「されている」とここで論じたのは、実のところ最初から「ポリコレ」という言葉を恣意的に主張した人間は存在しないからである。

ハーバード・ポリティカル・レビューによれば、アメリカではじめてポリコレが用いられたのは1960年代だったが、本格的に使われ始めたのは1990年代の主に保守派だったという。この頃から「ポリコレ」はリベラルが提示するラディカル政策や思想に対し、保守派が皮肉、風刺として「それは正しいことだね」と使う言葉だった。つまりリベラルの主張全般を保守が丸め込むために作ったマクガフィンが、「ポリティカル・コレクトネス」の主な用途だった。

中には自らポリコレを主張したり、推進する人間も存在するが、基本的にポリコレというものは実態のない、存在しない概念だ。性における問題、人種における問題、そういう問題提起に対して保守派が反動的に「正しさ(というはっきりしないもの)を追いかけてご苦労様」と砂をかけるための言葉に過ぎない。


そのため日本で行われているポリコレは致命的な「ボタンの掛け違い」が存在している。日本においてポリコレは概ね「皮肉」でなく「事実」であるかのように信じられているからだ。実際に「ポリコレ」という言葉で探すと「【悲報】ロード・オブ・ザ・リングさん、ポリコレに配慮するあまり本格的なダークエルフを出して炎上…」というタイトル(そのまま引用)にあるような、誰かが「ポリコレに配慮する」という文法が、この齟齬を端的に表している。しかし「ポリコレ」という実態のないものを配慮することは不可能である。

つまり今日本で議論されるポリコレとは、アメリカの保守派が作った「誰も信じていない正しさ」「恣意的に曲げられた正しさ」を、現在の日本では「実在する正しさ」であり、その同町圧力によって社会やフィクションが曲げられているのだと信じられ、改めてポリコレという言葉が保守の反動的に使われているからだ。保守の立場から使う言葉なのは変わりないが、少なくとも最初は皮肉だったものが、今では真実として信じられてしまっている。「嘘から出た実」のような嘘である。

もちろん、現代では性、人種、その他マイノリティに対するエンパワーメントがリベラル側から主張され、中には「キャンセルカルチャー」と呼ばれるように過激かつ排他的なものも含まれる。これらは大いに問題だし、個別に批判されるべきだと思う。

ただし、少なくともポリコレという概念を信じて社会やフィクションを変えようとする存在は、それを敵視する人の脳内を除いてほぼ存在しない。当然存在しないものを排除することはできないので、いくら「ポリコレをやめろ」と言ったところで現状が変わることもない。

今もポリコレをあくまで皮肉の意味で用いる人もいるかもしれない。ただし、本来保守が皮肉で使っていたポリコレという用語自体が、そもそもリベラルの主張を抽象化してキャンセルする、ただのレトリック、というより詭弁に過ぎないことからも、世の大半のポリコレ議論は全く具体性がない。つまりポリコレという言葉を使った時点で、その議論は耳を傾ける価値が全くない。


誰に「配慮」しているのか、そもそも「配慮」をしているのか

「ポリコレ」という言葉についてここまで語ってきたが、上述の通り「ポリコレ」の枕詞に必ずと言っていいほど「配慮」が置かれる。「この作品はポリコレに配慮している、だから作品、あるいは世間はクソだ」というものだ。

筆者が今最も恐れているのは、まさにここである。ポリコレが仮に存在するとしても、そのポリコレに「配慮」しているという事実は全く存在していない。例えば、ある作品に唐突に黒人や女性のキャスティングが増えた「事実」があっても、それが「ポリコレへの配慮」というのは全くの憶測だ。

単純に監督やプロデューサーがここに黒人や女性を使いたい、彼ら彼女らが主役の物語を作りたいと考える可能性が、全く考慮されていない。

今のネットにはポリコレというもっともらしい理由を使って、誰もが作者の動機を身勝手に推測しても良いという雰囲気が、今は当たり前のようにある。これこそが現在のポリコレ批評において最も不愉快なポイントだ。

確かに、批評は常に憶測や偏見が混ざるものだ。しかし、作品や作家について深く考えることなく、思考停止で「ポリコレ」と断定し、ましてそれが「配慮」という臆病なものだと断じること、これほどフィクションに対して失礼な批評があるだろうか。

それどころか、「ポリコレに配慮している」という批評の裏側には、必ずセットで「(ポリコレ的な描写について)修正すべき、批判されるべき」といった、非常に独善的なドグマが前提になっている。それはまさに、「ポリコレ」という本来皮肉であった言葉が内包している「正義を建前にした図々しい主張」そのものであり、ともすれば表現規制を主張するに等しい暴力をも秘めている。それも「アンチ・ポリコレ」という体の「ポリコレ」ではないか。

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