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ニール・ブロムカンプ最新作としてみる、映画「グランツーリスモ」脚色の意図【批評】

映画「グランツーリスモ」は現代の世相に対して極めて誠実に作られた映像作品であり、その完成度について疑う余地はない。もっとも、本作が扱うテーマと監督の経歴を鑑みた時、実はそう安易に肯定しきれないのではないかという疑念も抱いた。


本作はポリフォニー・デジタルが開発するグランツーリスモ」のプレイヤー、ヤン・マーデンボローが、ソニーと日産自動車が共同主催するレーシングドライバー養成プログラム「GTアカデミー」を経て、本物のプロレーサーとなって活躍していくという実話を、「第9地区」などで知られる気鋭の監督、ニール・ブロムカンプ監督が映像化した作品である。

「ゲーマーからレーサーへ」というドラマチックな史実に基づきながら、「迫真のモータースポーツのアクションシーン」や「ニール・ブロムカンプの外連味ある演出」が添えられることで、本作は現代的な市場を意識しながらもよく練られた娯楽作品と評価できるだろう。

ただし映画「グランツーリスモ」を純粋に実話ベースのエンタメとして楽しむには、一つ問題がある。本作は「この物語は実話に基づいている」という点を全面的に訴えているわりに、実際には極めて脚色に満ちている点だ。もちろん純粋にエンタメを盛り上げるための脚色は必要なのだが、本作の脚色には2つの「意図」があり、このうち1つの「意図」によって物語やテーマが大きく歪んでいるのが問題となっている。

そこで本稿では、本作の完成度は十分認めつつも、予告編や冒頭などで繰り返し「実話ベースのエンタメ」としながら、実際には「実話」と「エンタメ」の間に存在する恣意的なイデオロギーを指摘しつつ、その恣意性の背景として、監督であるニール・ブロムカンプの作風や経歴を鑑みつつ、映画「グランツーリスモ」の魅力と課題を整理したい。(以下、ネタバレを含む)

#実話だから熱いグランツーリスモ プロモーション上では徹底して「実話」を押し出している


脚色における2つの意図

仮にモータースポーツに詳しくない人でも、本作が実話ベースでありながら大いに脚色を含んでいるのは、一度本作を鑑賞した人ならなんとなく察せられるだろう。

実際本作は「ヤン・マーデンボローという人物がいる」「マーデンボローはグランツーリスモというゲームをプレイしていた」「マーデンボローはプロレーサーになった」という起承転結のうち起と結ぐらいしか「実話」要素はなく、それ以外のほぼ全てが脚色されたフィクションだと考えてよい。

例えば本作において、マーデンボローが大事故を起こし、良心の呵責からル・マン出場を諦めようとするシーンがある。しかし実際には、確かにマーデンボローは事故を起こしているものの、それはル・マン初出場の2年後の出来事である。このため、「マーデンボローは事故を介して精神的に成長し、ル・マンで勝利できた」という本作の結末部分はまるきりフィクションということがわかる。

もう一つ大胆な脚色が、マーデンボローの「師匠」となる「ジャック・ソルター」の存在だ。なんとジャック・ソルターという人物はマーデンボローのキャリアの上に実在せず、完全な架空の人物となっている。

一応、日産のエンジニアであるリチャード・ディビラが史実のマーデンボローのメンターであり、彼がソルターのモデルなのはマーデンボローの公認なのだが、ディビラは1996年から日産のレーシング部門で働き続けており、作中で描かれたように、一度ドロップアウトしてランボルギーニチームで下っ端として働いたこともなければ、それに反目してマーデンボローに注目したということもなく、ジャック・ソルター個人の苦悩や成長は概ね創造と考えられる。

ディビラは2020年に逝去。74歳だった。

このように、本作には物語の根幹に関わるレベルで多分に脚色が含まれており、実のところ冒頭でも示される「この映画は実話に基づいている」という点はほとんど正しくないことがわかる。ただし、本作は実話を脚色しているからダメだ、と言いたいわけでない。繰り返すように、実話ベースでも娯楽として盛り上げる上での脚色は効果的であり、特に本作の大胆な脚色は、プロレースやレースシムの世界を知らない人にとっても、その感動や価値をすぐに理解できるような工夫とみなせる。本作は実話を丁寧に追っていないからこそ、エンタメとして完成されているとすら言える。


ただし本作における脚色のうち、純粋に「エンタメ」だけを目的としているとは思えない意図の脚色もいくつかある。

例えば、時代背景。本作で(作中で明言こそされないが)マーデンボローがプレイしているゲームは、UIや演出から察するに明らかに「グランツーリスモ7」である。しかし、マーデンボローがGTアカデミーに参加したのは2010年であり、当時トライアルとして採用されていたのはPS3用の「グランツーリスモ5」だ。つまりマーデンボローが当時プレイしていない最新作を介して、マーデンボローが成功したかのように脚色されている。

(出所:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)

もう一つ、マーデンボローたちがGTアカデミーで「R35 GT-R」に搭乗して競い合うことになるのだが、やはり実際にマーデンボローたちが搭乗したのは「GT-R」より一回り小さく、コストもおよそ半額以下の「370Z」。そもそも作中で使われた「R-35 GT-R」は2014年モデルであり、そもそも時代背景的にマーデンボローのGTアカデミーには乗ることができなかった。

(出所:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)
実際に用いられた370Z 画像はグランツーリスモ ウェブサイトより


ではなぜ、どのような恣意性を持ってこのような脚色がされたのか?

一言で言えば、この映画がある種の広告、プロモーション的な意図があったからである。

本作の脚色・改変で描かれた「グランツーリスモ7」にせよ「GT-R」にせよ、現在も実際に販売されている「商品」だ。「グランツーリスモ7」は2022年に発売されたばかりで、同じく発売されて間もないPS5向けのタイトルとして今も人気が高い。一方、「GT-R」は一般人には手が出せない高級車だが、少なくともフラグシップとしての存在感は抜群で、ひいては現役の日産車のブランディングとして十分だ(カーディーラーに行くと高級車が目立つところに置いてある理由)。

他にも、主人公がグランツーリスモの公式パートナーである「FANATEC」ブランドのハンドルコントローラーを使っていたり、非常に重要なアイテムとして誰もが知るソニーの「WALKMAN」が使われているなど、映画全編を通してソニーと日産が今まさに推したい製品が目白押しなのだ。

これらは少なくとも冒頭で述べた「マーデンボローの挫折と復活」や「メンターであるソルターの激励と救済」のような「エンタメ」を意図した脚色とは明らかに毛色が違う。(熱狂的なソニー、日産ファンはともかく)観客を楽しませるためでなく、配給元であるソニーや、協力先である日産を楽しませたいと言わんばかりの、「プロモーション」を意図した脚色となっているのだ。

このように、映画「グランツーリスモ」は史実に基づいて大胆な脚色を加えた作品なのだが、同じ脚色の中にも「マーデンボローの事故のあべこべ化」のような「エンタメ的脚色」に、「グランツーリスモ」や「GT-R」のといった2023年現在の商品のプロモーションを混ぜ込む「プロモーション的脚色」の、2つの脚色が混ざっているのだ。


作中に描かれていないモータースポーツとレースシムの多様性

本作の脚色のうち、エンタメを意図した脚色と、プロモーションを意図したような脚色の2つが存在することが確認できたと思う。

ではここで確認したいのが、プロモーション的脚色の問題である。果たして特定企業のプロモーションが存在したとして、即座に映画がつまらなくなると筆者も思わない。仮にマーデンボローがプレイするゲームが、GT5だろうがGT7だろうが、エンタメ的脚色のように面白くなることは決してなくとも、逆につまらなくなるとも考えづらい。

だったら問題ないじゃないかとも考えられる。ところが問題は、特定の企業を「推す」あまり、他の企業や人物を含む全体的なテーマやカルチャーに対する認識を、かえって狭めたり、偏見に晒しているという点だ。

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