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『さよなら絵梨』&藤本タツキ論 現代日本を代表する至宝の漫画家の正体

本稿には『ルックバック』『さよなら絵梨』の全編ネタバレ、『ファイパンチ』『チェンソーマン』の一部内容に触れています。

藤本タツキは天才だ。こんなこと、今更言ったってミーハーにもほどがあるとわかっている。けれどやっぱり、彼の新作『さよなら絵梨』を読んだ後、彼のその才能を噛み締めざるを得なかった。

彼が天才だと評価される所以は、膨大な知見から繰り広げられる無数のオマージュとか、質量を感じさせる作画とか、1コマごとにハッとさせられるような構図とか、個性的なのにすぐ愛おしいと感じられるキャラクターとか、あげればキリがないのだけど、筆者の考える彼の才能とはそこではない。

藤本タツキはいつも、この時代に生きる若者たちの精神を、とてつもない解像度で描くところが天才なのだ。代表作『ファイアパンチ』、『チェンソーマン』、そして読み切りの『ルックバック』、この『さよなら絵梨』にしても、間違いなく「今」、令和の現代日本でしか描けない、ミレニアム世代からZ世代の若者たちの精神と魂を描く、そういうマンガだ。2022年の4月の11日に一番読みたい、読まなければいけない、そう思わせるようなマンガを彼は平然と描いてしまうのである。

だが、『さよなら絵梨』はその「今」すら超える。むしろ「今」に挑戦し、抵抗し、変革すら試みる。藤本タツキは、いよいよもって現代日本に生きる若者たちに、極めて重要なメッセージを投げかけてみせたのだ。これを天才といわずして、一体何だというのか。

いい加減、本気で誰か藤本タツキという現代日本の至宝の存在について、論じなければいけない。そこで本稿は連載前の短編を踏まえつつ、主に『チェンソーマン』『ルックバック』そして『さよなら絵梨』の3つの作品を軸に、藤本タツキがどれほど特異な才能なのか、そしてその作品が、我々に何を伝えてくれるのかを「藤本タツキ論」として論じたい。

『ルックバック』に見る現代を描く覚悟と責任

全ての作品がそうと限らないが、傑作と評価される作品の多くが、「今」、その時代にしか描けない固有の価値を持っている。

例えば、ピカソの『ゲルニカ』はナチス・ドイツが彼の祖国スペインで行った無差別爆撃を描いた傑作。これをたった1か月でピカソは完成させた。自分たちスペインで起きる残酷な戦争を、パリ万博を通じて世界中の人々へ伝え、平和について改めて考えさせる。そんな強いメッセージがこの作品には籠められている。

文学であれば資本家の暴虐に抗うプロレタリアート文学、また映画であれば巨大化した権力に若者が打ちひしがれるアメリカン・ニューシネマのように、「今」、この瞬間にしか描けない、この瞬間にこそ描かなければいけない、そのような情熱を籠めた作品はいずれも、「今」に留まらない普遍的な美しさを秘めることがある。「今」の人間が最も求めている言葉や夢を描くことは、「今」の人間にのみならず「未来」の人間の心まで揺るがす。

藤本タツキがこの才能を持っている稀有な作家であることは、既に氏のファンには言うまでもないことだろう。その才能が最も端的に現れたのは、読み切りとして公開された『ルックバック』だ。

漫画家としてデビューを目指す2人の少女、そして2人を襲う不条理という他ない暴力、そうした暴力に抗うべく創作へ向かう結末。無論これは、「京都アニメーション放火殺人事件」など、ここ数年に起きた社会的に排除された人々、いわば「無敵の人」による「テロリズム」を念頭に置かれたのは、作品が公開されたのが事件の1年+1日後であることからも、明らかだろう。

日本の誰もが怒り、悲しみ、そして打ちひしがれたあの事件、「今」に襲い掛かるあまりにも理解に苦しむ不条理を、藤本タツキは見事に作品として昇華した。その結果、筆者を含む多くの人間が、少なからず奮起させられただろうし、何よりも、その惨状に思わず目を背けてしまいかねなかった弱い心を引き留め、タイトル通り「振り返れ(ルックバック)」と、犠牲になった人々、今も苦しむ人々がいることを、心に刻むことになったのである。

SNS社会の中でどんな暴力や差別さえも刹那に消費される「今」の時代にあって、この藤本タツキの作品は到底消費しきれない刻印を、自分たちの精神に刻んでしまった。それができたのは、藤本タツキただ一人である。

意外なことに、藤本タツキ自身、自分がこのような「時代の当事者」にあることに対して、「責任」とすら解釈できる意識を持っている。まだ彼が『ファイアパンチ』を描き始めたときは

「例えば、今ネット上で怒っている人が多いじゃないですか。そういう人たちって、Twitterとかで発散できていると思うんですけど、僕は自分の怒りなどをTwitterとかに書く気が知れなくて。漫画にぶつけているんですね。」

藤本タツキx沙村広明 奇跡の対談

と、まさに今の若者がSNSにおいて意見を発信する「代わり」に漫画が用いられていると本人は語っている。また、藤本タツキは17歳の頃、山形の美術大学に入学した直後、東日本大震災に直面している。「何か少しでも役に立ちたい」と石巻に復興支援ボランティアとして向かうが、住宅街一区画の泥を除ける作業も満足にできず、仲間たちと共に意気消沈したという。

「17歳からずっとその無力感のようなものがつきまとっています。また、何度か悲しい事件がある度に、自分のやってることがなんの訳にも立たない感覚が大きくなっていきました。」

藤本タツキ短編集 17-21

ミレニアム世代からZ世代が向き合う1990年からの「失われた30年」、とりわけ2010年以降、震災を機に決定的に「悲しい」ことが若者の間で決定づけられ、しかもそれを補うだけの救いがもうないと「悟る」時代にあって、藤本タツキは他の才気溢れる作家と同様に、その時代に対して誠実だった。誠実に、作品にぶつけた。その極地が『ルックバック』である。

若者の心情を信じられない解像度で描写し、「共感」を獲得した藤本タツキ

とはいえ、藤本タツキ作品の中でも『ルックバック』は異質だ。普段はむしろ、冗談のようにバイオレンスなエンターテインメント作品を描く。そこに日本社会や現代性などとは全く無縁のように見える。

例えば、デビュー作となる『ファイアパンチ』は身体が燃える男を主人公にした復讐譚だ。とにかく人が死ぬことが特徴で、重要そうに見えたキャラクターがあっという間に死ぬなど常に読者の予想もつかない展開が待っている。その次に連載した『チェンソーマン』でも、ストーリー上では極めて冷淡にキャラクターが殺されている一方、インパクトのあるバイオレンスな作画も魅力といえるだろう。

一見よくできたエンタメ漫画にすぎない両作だが、実際には『ルックバック』と『ファイアパンチ』、『チェンソーマン』の間で、藤本タツキの本質は何ら変わらないように思う。やはり藤本タツキは実直な人間だ。きっと誰よりも漫画を描くという行為の意味を、意義と誠実に向き合っている。そう筆者が気付いたのは、『チェンソーマン』の主人公デンジが敵に向かってこう叫ぶシーンだ。

「み~んな俺んヤル事見下しやがってよぉ……」「復讐だの」「家族守りたいだの」「猫救うだの」「あーだのこーだの」「みんな偉い夢持ってていいなア!!じゃあ夢バトルしようぜ!夢バトル!!」

『チェンソーマン』第10話「コン」

実際には「夢バトル」をせずに、敵をチェンソーでバラバラにしようとする冗談のようなシーンなのだが、実はこのデンジの台詞は冗談で言ったわけでない。

元々デンジは貧困に苦しみ、食パンにジャムを塗って食べる程度の「普通の生活」がしたいとチェンソーの悪魔と契約し、チェンソーマンとなった。言い換えれば、既にその時点でデンジは「夢」を叶えており、しかも十分に幸福だったため、「夢」のないまま闘い続けていた。ここにバブル崩壊後から「夢」を失ったまま、しかし上の世代に「夢」を持たないことで異端視される、ミレニアム世代の姿と重ねることは容易である。

高部大門『ドリーム・ハラスメント 『夢』で若者を追い詰める大人たち』によれば、義務教育を含むあらゆる環境に未だ「夢」に正当化されたマチズモが残っており、若者が萎縮を余儀なくされているという話がある。「夢が欲しい」のではなく「夢がないことに満足しているが、それによって周囲の共感を得られない」という現代に顕著となった若者の心理を、デンジは等身大で表現している。

しかもデンジにとって欠けているものは「夢」だけではない。最初から何も持っていなかったデンジには、軸となるべき主体がなく、「夢」を持つとか、誰かを「愛する」とか、そういった周囲に「共感」される資質を一つとして持っていない。だからこそチェンソーマンとして闘う時は無敵であり、B級映画のように容赦なく敵を切り刻むことができるのだ。

いわゆるジャンプ三原則、友情、努力、勝利のうち、デンジには勝利以外がない。それは従来のジャンプ漫画へのアンチテーゼであり、「夢」や「仲間」への共感を前提に作られた現代日本社会へのアンチテーゼでさえある。

「夢」や「仲間」、「家族」、我が国においてこれらは当然に肯定されるべきものだ。だから、日常生活での会話から、漫画やアニメに至る表現の世界までこのコードが支配している。けれども経済的に衰退し、「夢」や「仲間」、「家族」といった概念が若者にとって希薄化していることを、現状多くのメディアは汲み取れていない。「ドリームハラスメント」もそうだが、「家族を持て」という強迫観念にしたって、経済的な困難を理由に恋愛すらままならない若者が増えている背景がある。

現代社会において、唯一このコードから逃れうる表現は、いわば「サブカル文脈」……つまりそれを一種の冗談として「逃避」した上で楽しむことだ。(この文脈で成功した映画監督が園子温であり、「隔離」を隠れ蓑にセクハラによって多くの女性を苦しめていたことが、先日明らかになった)

藤本タツキ作品もまた一見すれば、バイオレンスとギャグが同居した「サブカル的」な表現に解釈できる。けれど、ここからが藤本タツキの本当にすごいところなのだが、デンジや、周囲のキャラクターの発言を省みていると、そういった「サブカル的」な自分たちの姿勢に自覚的であったり、内省的であったりする。

例えば、デンジは仲間を失っても「心臓だけでじゃなく人の心までなくなっちまったのか…?」と自分を疑う。家族を悪魔に殺され、復讐に生きるアキは最終的に「キャッチボールをすること」の意味を思い出す。サブカル的な作品なのに、そのサブカル的な自己を否定したり、成長したいとも作中で言及されているののだ。

そうして、『チェンソーマン』のクライマックスは「家族とは何か=抱きしめられるような人間関係」という極めて普遍的な、安易にも解釈できるテーマに着地する。だが、バイオレンスとギャグが重なることで生じる痛快な笑いで、若者たちの「共感」と導きながらも、その合間にデンジたちの虚無さと真に求めるものを示唆することで引き込んだ末に、「家族」というテーマが持ち上がるからこそ、この結末には圧倒的な説得力がある。

印象的なシーンは、中盤、マキマとデンジが映画を見に行くシーンだろう。2人はバイオレンスな映画を含め、多くの映画を見るのだがどれもつまらないと言い合う。だが、唯一2人が泣けた映画は、老夫婦とおぼしき2人が抱擁するシーンのある映画だった。それは『チェンソーマン』という隔離されたバイオレンスの聖域に生きる2人が、その自分たちの在り方に疑問を抱き、内心自分たちが求められているのは普遍的な愛情だと気づく瞬間だ。

経済的な理由を根拠に未婚率が上昇する現代において、若者にとって「夢」や「愛」といった、かつて古き良きジャンプ的なテーマは、もうほとんど現実的に見えない。むしろ、やや極端だが「朝食にジャムを塗りたい」「女を抱きたい」と言い、共感能力を失ったデンジの姿の方が遥かに、リアルなヒーローとして共感できる。だがデンジが自分の戦いの中で、その孤独について自覚した時、ようやく「夢」や「愛」について真剣に語ることができる。

(藤本タツキはデビューするまで山形で家賃15000円のボロアパートで「とてもお腹をすかせながら」というレベルに困窮しながら絵の練習をしていたという。デンジの夢見る「普通の生活」は作者の実体験でもあった。)

まるで読者を混乱させるかのように、「王道」と「ナンセンス」の間を揺れ動く藤本タツキの作劇は、ある意味で不誠実なものに見える。けれども、インターネットの浸透で「王道」的な価値観が崩壊し、代わりに無数の思想で飽和する現代社会のデジタルネイティブにとって、ある種、誠実なものこそ胡散臭く、不誠実なものが信頼できる。

それはSNSにあふれる嘲笑的なミームや、YouTubeのナンセンスなコンテンツにも見出せるし、無論、藤本タツキの作劇が支持される所以なのだけど、そこにおいて、藤本タツキは誠実さを振り返るのだ。それこそが、今の若者の心にはどんな偽善より突き刺さるのである。

『さよなら絵梨』にみる、共感の地獄からの脱出

ここまで『ルックバック』『チェンソーマン』を踏まえた上で、いかに藤本タツキが現代日本社会の精神性を圧巻の解像度で描いてきたか述べてきた。

震災からテロリズムの2010年代的な悲劇を背負った若きクリエイターを直截に描いた『ルックバック』や、平成以前の「夢」や「家族」等の構造を「普通の生活」を夢見る「サブカル的な」デンジが解体していく一方で、その虚無に自覚的でありながら「対等な関係」によって現代的な社会の再構築を試みる『チェンソーマン』を読むだけで、藤本タツキは2010年代の悲劇に対して困窮生活で「無力感」に打ちひしがれた「怒り」を根源に「役に立ちたい」という誠実な精神を持つ、まごうことなき現代日本を代表する最高の作家であることは、言うまでもない。

ここからようやく『さよなら絵梨』について述べることができるのだが、本作は既にこうした規格外の氏の才能を更に進化させ、彼が見事に描いてきた「現代」についてのカウンターにまで発展している点が、圧倒的という他ない。

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