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『ポケモンアルセウス』は近代北海道の残酷な歴史をどう解釈したのか?

既にタイトルからも察せられる通り、本稿は『Pokémon LEGENDS アルセウス』(以下、アルセウス)に対するネタバレ、また、日本史に対しても同様にセンシティブなテーマを(アルセウスというゲームと同じく)扱うことになる。
そのため、既に本作を楽しまれた方にとっては不快となる表現があるかもしれないことを、予めご了承いただきたい。


『ポケモンアルセウス』は良い作品だ。ゲームデザインにフォーカスして述べた拙稿を読んでいただければわかるが、本作は一部無駄な要素によって整合性が失われているものの、ポケモンを介した唯一無二の身体性と、それを発揮することで得られるオープンワールド上の体験は新鮮かつ楽しい。この結論は、本稿を述べた後も変わらない。

この、新鮮という点が重要だ。クラシックの丁寧な積み重ねによって生まれた作品も良いが、何より、時代を切り開く先見性を持った作品は、どんなプレイヤーの心にも響かせる驚きがある。何より筆者は、そのような挑戦から垣間見る、創造の担い手たちの勇気や反骨精神を尊重したくなる。

その点で『アルセウス』は、大半の新規IP以上の大いなる挑戦があったと言えるだろう。25年もの間ほぼ変わらないゲームデザインを正史として初めてアクションRPGに、捕獲をベースにしたオープンワールドゲームに変更したのもそうだ。そしてもう1つは、近代における日本的な世界を舞台にしたストーリーもまた、やはり挑戦であった。


近代をテーマとする意義

「西欧世界の歴史の出発点にある悲劇的な構造が、悲劇の拒否、忘却、静かな落下にほかならないことは、ニーチェが証明したことである。悲劇は、歴史による悲劇の拒否そのものによって悲劇的なものを歴史の弁証法と結びつけているのだから、その中心をなすものであり、この中心のまわりを、他の多くの経験がめぐりとりまいているのである。」
ミシェル・フーコー

ポケモンシリーズはいずれも現代社会、それも関東をカントーと呼ぶほど具体的に現実をモチーフとした現代社会を舞台としてきた。

何故なら、我々が生きる現代社会は人類史上、もっとも優しく、正しい時代だからである。現代にも犯罪、紛争、差別といった問題は根強く残っているが(本稿執筆中にウクライナ危機が激化)、それでも現代は一定の「正しさ」が維持され、担保されうるだけの説得力を持つ。要は、世界を滅ぼしたいのだという悪の組織が現れたとしても、それを当然にプレイヤーは打ち負かすことができると子どもたちに希望を持たせられるのは、現代社会をおいて他にないのである。

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対して『アルセウス』が選んだテーマは近代である。それも、作中のストーリー、またアートなどを確認しても、これは近代における北海道だと断じられる。既にアートワークや事前のトレイラーなどでも明らかであったが、作中にも具体的に以下のような描写があった。

現代に生きる主人公は、近代のヒスイ地方へ召喚される。ヒスイ地方には本州から渡ったギンガ団、そして先祖代々現地で生活を営むコンゴウ団とシンジュ団がいた。ヒスイ地方の大半は未だポケモンたちが多く残り、ギンガ団の人々はこのポケモンを恐れて外出もままならない。そこで主人公は、ギンガ団から衣食住を提供されるのと引き換えに、ギンガ団の一員としてポケモンの調査、またコンゴウ団とシンジュ団とも協力するようになる……。

正直、筆者は発売前からこの背景に驚いた。繰り返すように、本作は安全な現代社会だから成立する物語だった。しかし本作は現代ではなく近代、それも、近代の北海道を舞台に描いている。

北海道そっくりの地形のシンオウ地方には、明確に移民と先住民、つまり和人とアイヌを思わせる2つの勢力が登場する。更にギンガ団はポケモン=自然を恐れる一方で、コンゴウ団やシンジュ団はむしろポケモンを神と崇め、共存する生活を送っている。もっと細かい部分を見れば、ギンガ団の拠点は明らかに西洋風の建築である一方、逆にコンゴウ団やシンジュ団の建築はやや古風で、服装や家屋までアイヌ文化らしい。

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また『ダイアモンド・パール』の時代から、シンオウ地方は北海道が舞台だとゲームフリークの増田氏が述べており、その時代背景が近代ともなると、歴史との関係性を否定することはできない。

日本語ゲームメディアでの『アルセウス』のレビューで、この点に触れたものは現状目にできなかったが、ご存知の方も多いように北海道の近代史は、数千年の日本の歴史の中でも特にアイヌと呼ばれる先住民への同化政策が存在したセンシティブなテーマであり、このテーマを選ぶこと自体大きな作品としての意義と核心があると考えられる。

そこで、今回はこれまでポケモンと最も縁遠かったであろう暴力と不条理にまみれた近代史に、いかに『アルセウス』は挑み、何を得て、そして何が欠けていたのかを考えたい。



アルセウスを語る上では外せない、北海道の忘れられた歴史

では近代における北海道とは、どのようなものだったのか。歴史の教科書などでうっすらと登場するものの、その実態について知る人は少ないと思う。そこで、実際に近代の北海道で何があったのか、公正を期すために政府側の資料も引用しながら振り返ってみよう。

かつて、麻生太郎財務相が「2000年にわたり、一つの国で、一つの民族、一つの王朝が続く国は日本だけ」と発言したが、言うまでもなく、過去も現在も日本は単一民族国家とは言えない。他国と同じように、日本の領土には歴史上、複数の民族が共存する「多民族国家」である。

北海道もまた、かつて「多民族地域」だった。かつて蝦夷地と和人に呼ばれたこの地域では、長くアイヌを中心とする非和人が中心の共同体が長く存続していた。和人たちがこの地に進出をし始めたのは鎌倉時代のことで、同地は流刑地として利用されたのだが、やがて渡島半島南端に道南十二館が建設されると、アイヌとの交易が始まる。時折、コシャマインの戦いなど紛争もあったが、アイヌと和人の同意に基づいた法「夷狄の商舶往還の法度」からもわかるように、アイヌと和人は概ね対等な関係を築いていた。

この関係性が破綻し始めたのは江戸時代、松前藩が設置されてのこと。各地の税収が江戸幕府に集中する体制が築かれたことで、江戸幕府によりアイヌとの交易先は松前藩に一括され、必然的に松前藩に有利なレートでの交易が進むようになる。更に、シャクシャインの戦いにあるような反乱も幕府軍により鎮圧されることで、次第にアイヌの各部族も分断、孤立を深める中、和人の進出は進んだ。

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そして明治時代、函館戦争が終結すると、この地は南下するロシアに対する防衛線、更に産業時代に向けた資源獲得のため、「北海道」と改められ日本領土に組み込まれた上、明治政府による直接的な統治が行われる。屯田兵による開拓に加え、国家権力(法)をもってアイヌの文化、経済は大きな打撃受ける。具体的には、北海道鹿猟規則により伝統的な毒矢の狩猟が禁じられた他、1883年に一部地域で鮭漁を禁ぜられるなど、アイヌの文化や経済を破壊したのは国家の法律によって反証できる。

だが、和人のアイヌへの侵略として最も顕著な法、それが「北海道旧土人保護法」だ。アイヌを旧土人と呼ぶ名前からも侮辱そのものだが、内容はもっとひどい。具体的には、以下の3つの条文が問題視される。

第一条:アイヌに土地を無償交付する(北海道旧土人ニシテ農業ニ従事スル者又ハ従事セムト欲スル者ニハー戸ニ付土地一万五千坪以内ヲ限リ無償下付スルコトヲ得)

ほうほう、土地を無償交付。これならいいんじゃないかと思うだろう。ただしこの土地は、9061haで北海道全面積のうち0.1%のみ、更に多くは工作不適地だ。そして日本政府はこの土地と引き換えに、以下の条文が付随していた。

第三条:ただし15年以内に開墾しなければ没収する(第一条二依リ下付シタル土地ニシテ其ノ下付ノ年ヨリ起算シ十五箇年ヲ経ルモ尚開墾セサル部分ハ之ヲ没収ス)

第十条:アイヌの共有財産は、全て北海道庁長官が管理、処分し、必要の限り分割を拒める(北海道庁長官ハ北海道旧土人共有財産ヲ管理スルコトヲ得)

ここでいう「共有財産」とは、アイヌが伝統的に生業とした狩猟権、漁業権、鉱業権なども含まれ、これらは「保護」の名目によって政府が管理することとなった。早い話、いらない土地と農耕文化を押し付けながら、アイヌたちの重要な財産を和人で「管理」する……これが、「旧土人保護法」の狙いであった。(最も、保護法の前から和人により漁業権は奪われつつあったが)

更にこの法律の前後には、1871年の入れ墨および家送り儀式を禁ずる通達、1877年にはアイヌ語ではなく日本語のみを教える「旧土人学校」の設立、1901年「旧土人児童教育規定」による「(天皇の)臣民」としての教育が行われ、アイヌは和人文化に同化させられることとなった。なお、現在もここで奪われた「共有財産」に関して全て返還はされておらず、この問題は指摘されている。

ここまで読まれた方は概ねお察しの通り、本施策は北米におけるインディアンへの迫害、またオーストラリアにおけるアボリジニへの迫害と同様に、近代北海道におけるアイヌへの政策は、国家ぐるみでの先住民への迫害、搾取だったと批判されてもやむを得ないものとなっている。

何を隠そう、これらの政策を提案したのは、政府が雇用したアメリカの軍人、ホーレス・ケプロン。ケプロンは当時フィルモア大統領のもと、インディアン各部族との調停の実績があった。つまり、アメリカの先住民政策が、そのまま日本の政策にも活かされているのである。実際、旧土人保護法もアメリカのドーズ法を参照にされたとみられている。

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さて、センシティブな歴史的テーマ故に、根拠の中でも日本政府の主張と法律を主に根拠とした。無論のこと、現代では「旧土人保護法」は撤廃され、約100年後(!)の1997年にアイヌ文化振興法、2019年にアイヌ新法が成立される。また、北海道庁も「(旧土人保護法は)日本国民への同化が目的だった」ことを認めている点も、付記しておく。


『アルセウス』が見せた「強さ」の希望

このように、『アルセウス』が背景として選んだ北海道の近代史は、一言で言っても冷酷極まるものであった。このような恐ろしく、また、恥ずべき歴史が日本にあったこと、それ自体を知らない人がいるのも無理はない。文科省が教科書から徐々にこれらの記述を消し、ノーマライゼーションを図っていると批判もある。

だがそもそも、何故『アルセウス』はこんなセンシティブなテーマを選んだのだろうか。もし、ただポケモンと人類の接近を描くなら、別に近代ではなく、中世でも、石器時代でもよかったはずだ。北海道でなく、和人文化が生まれた関西や九州でもいいし、開き直ってポストアポカリプスの世界でもいいだろう。

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画像はNew ポケモンスナップ

私の議論に限った話ではないが、よくゲーマーの方は「ゲームに政治や歴史をこじつけるな」と怒る人もいる。だが、それなら最初からこんな危なっかしいテーマを選ぶ必要はない。よもや世界的IPのポケモンが、こうした歴史の危うさを知らないはずはなく、つまりは意図的に政治や歴史のテーマを本作は選んだと考えられる。むしろここで「こじつけ論」とするのは、それこそゲームフリークに失礼ではないか。


私はこう考える。つまり、『アルセウス』はあえて近代北海道というテーマを選ぶことで、人々の分断や差別に対して立ち向かう物語を描いたのだ、と。


まず、日本政府がアイヌに対して行った政策はいずれも「保護」を建前とした搾取、迫害、時に殺害をも含むものであり、それらは到底許されるものではなく、またアイヌの貴重な文化や言語がそれらによって失われたことは、既に取り返しのつかない損失だと考える。

ただし。こうした日本の近代史が、少なくとも日本人、また日本政府固有の問題とは断じられない。北米のインディアン迫害、オーストラリアのアボリジニ迫害に加え、欧州における各大陸の支配、更に現代では、中国のチベット自治区、ミャンマーのロヒンギャ、中東のクルド人など、長らく同じ土地で文化を築いたにも関わらず、後天的な権力により支配、迫害される例は現代も続く。

むしろ、先住民や異民族への迫害は、国家や時代を問うことなく普遍的に存在する、いわば人類の社会が当然に向き合う問題なのである。そして『ポケモン』もまた日本だけではない、むしろグローバルに愛されるIPだ。

このように、全くのファンタジーでもなければ全くのリアリティでもない、その狭間にある「シンオウ地方」を舞台とすることによって、『アルセウス』は日本のみならず、人類普遍的な先住民への迫害問題というマクロな視点で、この問題を議論することができる。

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ジェームズ・キャメロンは2009年の映画『アバター』で架空の惑星パンドラを舞台に先住民ナヴィとの交流を描きながら、それが明らかにアメリカのインディアン迫害のメタファーとして世界中の人々に先住民の迫害問題を呼びかけることができた。手塚治虫の『ジャングル大帝』は白ライオンのレオを通じ、人間社会にもジャングル社会にも馴染めない、支配後の先住民の姿を描いてみせた。

「マンガの目的というのは風刺でしょう。風刺というのは批判しなきゃいけないのです。批判して、それで笑い飛ばすというのが風刺なわけ。それは反逆精神です。だからマンガ家はつねに憎まれっ子なの。」
―手塚治虫

かくして本作は夢と現のあいだ、北海道とフィクションのあいだにある「シンオウ地方」を通じ、ポケモンとして例のない水準で、現代にはない哀しみと恐ろしさへ挑戦する作品だと考えられる。


『アルセウス』の肯定的な評価

このように論じてきた北海道近代史に対し、『アルセウス』はどう「ヒスイ近代史」を作り上げたのか。本作はあえてわざわざこのテーマを採用しただけあり、決して不用心にこのテーマを扱ったわけではない。具体的に肯定できる点としては、以下のようなものが挙げられる。

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