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ゲーマーかつ映画ファンが解説する映画『スーパーマリオ』のすごさ【レビュー・考察】

公開前からSNSを騒がせたように、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』に対する感想は完全に賛否で二分している。その論拠は様々であるが、一言でいうとその二分は「映画を知っているが、ゲームを知らない(理解もしたくない)」という人と、「ゲームを知っているが、映画を知らない」という人の間で分断が生じているからではないかと思う。(ゲーム=任天堂、映画=Illuminationと言い換えてもいい)

実際、ゲームも映画もある程度関心のある筆者にとって、この作品に対する批判も肯定も全く賛同しかねた。それどころか、本作に対する「批評」ないし「感想」は、明らかに既存の「感想」に対する政治的な肯定や否定に基づいていて、観客同士が勝手に空中戦をするなか作品をまともに論じる(気のある)感想がほとんど見当たらない始末なのだ。そこで、もう少し冷静になって本作を論ずる必要があるのではないかと考えた。

筆者は普段、ビデオゲームの批評を書きながら、映像作品の評価も行っている。自分から名乗り出るのも恐縮だが、ゲームと映画、任天堂とイルミネーション、どちらの知見も一定持ち合わせる人間として、本作をもう少し踏み込んだ内容を論じられる人間と自負している。そこで、今回はゲームと映画双方の立場からいかに『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』がすごかったのかという話をしたい。

©2022 Nintendo and Universal Studios. All Rights Reserved.


映画ファンが誤解するマリオの魅力

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』について語る前に、そもそも「マリオ」とは何かという話しをしたい。

多くの人はマリオに対して「子どもたちに愛される、任天堂らしいゲーム」といったイメージを抱きがちだ。実際、主に映画ファンの『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』に対する感想も「マリオ=子供向け」という前提の上で「物語が稚拙すぎる」といった批判、あるいは「子どもたちが大喜びだった」という肯定がされていた。

しかし、マリオは必ずしも「子供向け」ではない。少なくとも「子ども”も”楽しめるゲーム」であって、「子ども」が消費するために最適化された作品では全くない。これは実際に『スーパーマリオブラザーズ』をプレイした方なら多くが共感いただけると思う。

そもそも、マリオは非常にプリミティブかつエッセンシャルなアクションゲームだ。マリオにできるのは「走る」「ジャンプ」「変身時の能力」の3つのみで、余計なシステムはほとんどない。

プレイヤーはひたすらマリオを自分の手足のごとく動かせるまで練習し、敵の挙動やブロックの配置を覚え、自分の身体だけでこれら難関を攻略する行為、すなわち「アクション」だけがマリオの本質なのだ。これは難易度こそ変われど最新作のマリオも大きく変わっていない。冗長なカットシーンやシステムを無駄に積み重ねた他の最新ゲームこそ、むしろ「子供向け」にすら思う。

世界観や物語にしても同様である。確かにマリオにおける世界観は、そこらにキノコが林立して、ブロックが浮遊する珍妙な世界である。物語も「怪獣に攫われた姫君を救い出す」の一行で済むほどシンプルだ。だがこれらもちゃんと理由がある。

まず世界観が荒唐無稽なのは、それがマリオのゲームデザインを象徴しているからだ。例えば、土管が初登場したのは『マリオブラザーズ』だが、それは重力に従って落ちるノコノコ(敵)を再び上部へサルベージする仕組みだったし、そんなノコノコが亀の姿をしているのもマリオアクションの「ジャンプ」を促すために「踏まなければ倒せない動物」として描かれたからだ。またマリオが口ひげを蓄え巨大な鼻を持っているのも、マリオが今左右どちらを向いているか一目で判別するため。このように、マリオの世界観はささやかなユーモアにゲームをわかりやすく、遊びやすくする目的で最適化されているのであって、意図的に面白おかしい描写にしているわけでない。

(なお、マリオ誕生の経緯はこの宮本茂へのインタビューで詳しく語られている。)

物語がシンプルなのも、これはゲームプレイ自体が物語として成立しているからである。

恐らく世界的で最も有名なレベル、『スーパーマリオブラザーズ』の「1-1」を見てみよう。まず最初に何もない地平にマリオは降り立つ。すると画面端からクリボーがやってきて、これをジャンプで避けるとキノコでパワーアップを得る。これが起承転結における「起」だ。それからクリボー、土管、穴を乗り越える「承」へ続き、やがて自身を無敵にするスターを獲得して「転」に至る(音楽もちゃんと転調する!)。更に崖からの大穴、二連クリボーといった難所を超えつつ、ブロックの大山を乗り越えてついにポールにタッチして「結」だ。

このように「1-1」は一文字もテキストを使うことなく、ゲームプレイで「起承転結」をしっかり演出しているのである。この物語の前には、世界観の説明や悪役の心境などノイズにしかならないことがわかるだろう。

さて、ここまでいかにマリオが「子供向け」ではなく、その荒唐無稽な世界観や単調な物語にも、ビデオゲームならではの面白さを追求した必然的な結果を見出すという、(過去40年で散々語られてきたであろう)マリオに対する認識を改めてきた。ではここからは、こうした「ゲームならでは」を追求したマリオの魅力を、「映画ならでは」として再構築したのかを考えていきたい。


実は「アクション映画」として原作を大胆に裏切っている『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』

ゲームも同じだが、映画を評価する上では「その映画が何を描こうとしていたのか」をある程度考える必要があると思う。パズルゲームに対して「世界観が弱い」と論ずるのがナンセンスなように、『ゴッドファーザー』と『ミッションインポッシブル』を、あるいは『ドーンオブザデッド』と『ショーンオブザデッド』を同じ尺度で語るのはナンセンスだと言えば理解できるだろうか。

では『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』の狙い、ジャンルは何だったのか。これは間違いなくアクション映画だろう。この作品は明らかに、マリオたちのかっこよく、面白く、そしてスリルにあふれたアクションを楽しむ映画だ。

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実際、映画を見ても本作はアクションシーンだらけ、というか「アクション」をしていない時間がほとんどない。本作はアニメーションはもとより映画全体で見ても、これほどアクション偏重なアクション映画は稀ではないかというほど、常にどこか動いている。冒頭だけでもただ配管工の仕事をするだけで街中を走り、飛び、跳ねる。キノコ王国に行けばピーチと一緒にアスレチックに挑み、ドンキーと出会えばすぐ殴り合いになる。おまけに『マッドマックス怒りのデスロード』リスペクトのドタバタレースバトルまで始まる始末だ。誰もじっとしていられない。なんたってこれはマリオなのだ。

また本作のアクションは実に独創的である。例えば、本作は他のアクション映画のように銃や剣、肉体での戦闘は一部シーンを除いてあまり描かれない。代わりにエピックなのがアスレチックで、冒頭のブルックリンからキノコ王国への来訪、またピーチ姫のトレーニングと、マリオらしいアスレチックアクションを存分に描く。また戦闘シーンやカーチェイスシーンなど、アクション映画お決まりのシーケンスにも独創性があり、例えばドンキーコングとの対決では正面の肉弾戦で勝てないと悟ってアイテムで変身したり、カーチェイスシーンでは「ミドリこうら」が車を弾き飛ばしたりと、原作マリオのエッセンスを用いて本作はアクション映画の常識を次々に覆している。


一方、本作はただ任天堂作品の魅力的なアクションをトレースしただけでなく、むしろ原作に対する大胆なアレンジがあってこそ、本作のアクションは魅力的なものになっている。まず原作のアクションと比べた時に際立つのが、原作における「律儀さ」と映画版における「曖昧さ」である。

繰り返すように、マリオは一見荒唐無稽なゲームでありながら実に合理的に設計されており、アクションもその例外ではない。プレイヤーの入力に応じて、マリオは入力通りの動きを、入力通りのエネルギーで実行する。具体的には『スーパーマリオブラザーズ』におけるマリオのジャンプ力はブロック4つ分と少しである。だからプレイヤーはブロック4つ分なら助走があれば確実に乗り越えられると理解するし、このジャンプ力から逆算して飛び越えられる穴、敵の数を計算したり、あえて弱くジャンプして着地のリスクを抑えるといった技術を習得する。このように「マリオのジャンプ力」は明文化されてないものの、マリオというゲームの重要なルールとなっているのだ。仮に「ルール化されたアクション性」とここで呼ぼう。

興味深いのは、実はスーパーキノコを取得してもジャンプ力は変わらないということだ(これはゲーマーには周知の事実かも)。キノコを取得すれば、被弾を一度回避したり、レンガブロックを壊すといった恩恵こそ得られるものの、それはゲームプレイにおいて「必須」ではない。本作の本質はジャンプなのだ。逆に、状況や運次第でジャンプ力が変動していたら、ゲームデザインはかなり別のモノとなっていたはずだ。

この「ルールとしてのアクション性」は初代マリオに限った話ではない。「『スーパーマリオ64』において、マリオの攻撃は必ず右、左、キックの順で、それぞれのフレーム数は4、3、25フレームである」など「ルール化されたアクション性」はアクションゲームに無数に存在し、これをいかに理解し、入力に応用するかがゲームの肝となる。チェスのポーンを真後ろに動かせば不正だし、OCG版の《砦を守る翼竜》は攻撃を35%の確立で回避できないのと同じように、アクションそのものがルールなのである。

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対して、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』のアクションを見たところ、これが「ルール化されたアクション性」とはすっかり真逆の、何一つ統一性のない無茶苦茶なアクションなのである。マリオのジャンプ力も冒頭ではブロック一つ分がせいぜいというところか、ブロック10個は乗り越えられようかというジャンプ力を手にする。ダッシュも時速50㎞ぐらい出ているのではというスピードになったり、ポカポカと弱弱しくパンチをしたかと思えば一発で相手をKOしたりもする。

際たる例が、ピーチと挑むトレーニングコースだ。マリオは空中に浮かぶコースを見て、常人できるはずがないと諦める。しかしスーパーキノコを手に入れると何倍もの身体能力でアスレチックを飛び越え、その上さらに不屈の努力でスローモーションまで獲得し、コースを突破してみせる。原作のスーパーキノコではジャンプ力すら増えなかったのに、だ。これは本作の実に興味深い点である。

既に多くの感想で述べられている通り、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はマリオ原作に忠実な内容だ。お馴染みのキャラクターに、お馴染みの世界、「peach is in another castle!」など無数のイースターエッグを含め、制作者のマリオ愛に溢れている。しかし、先述した通り「マリオ」の本質はアクションであり、物語や世界観はアクションを成立する装飾だ。そして本作はアクションこそ、むしろ原作「マリオ」の「ルール化されたアクション性」とは真逆の「アニメイトされたアクション性」を十全に発揮し、映画ならではのオリジナルなマリオかつアクション映画を完成させているのが、実に白眉なのである。

本作に企画の頭から携わり続けた宮本茂は、「マリオの映画を見に来る人たちが何を求めているかを考えた時、やっぱりアクションシーンだと思いました。皆さんがゲームの中で経験したアクションがより本当に感じられるように、アクションシーンはとても大事に作りました。」と語っている。ビデオゲームでアクションを追求し続けた宮本茂の哲学が、イルミネーションのアニメーションによってついに映像として実現したのが、このアクション映画というわけだ。

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はアクション映画として紛れもなく傑作である。既存の映画、アニメ、ゲームでさえ表現できない、「アニメイトされたアクション」をアスレチックやカートレースを通じて発見し、これをそこら中にちりばめている。


ゲーマーが知らないアニメスタジオ「Illumination」の正体と、宮本茂が認めたその哲学

マリオの純粋なゲーム的な魅力を、アニメーションとして見事に再解釈した『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』。では次に論じたいのが、この再解釈をイルミネーションというアニメスタジオがどのように実現したかという点である。

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