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哲学で考えるホラーゲームの定義 なぜカクカクポリゴンのタイラントにビビれたのか?

『バイオハザード RE:4』が発売された。元々2005年に発売された『バイオハザード4』をリメイクした作品だが、バイオハザードの中でも最高傑作と名高いこの作品を、極めて丁寧かつ見事に蘇らせており、リメイクかくあるべしと言わんばかりのすばらしい作品となっている。

しかし、『バイオハザード4』はシリーズの中で人気の作品でありながら、同時にホラーゲームの限界を示したという点でも重要な作品である。そもそも(怖いゲームは以前にあったにせよ)ホラーゲームというジャンルを1996年に『バイオハザード』が確立した一方、『バイオハザード4』はそのホラーゲームの限界を受けつつ、カメラを固定カメラからビハインドカメラへ切り替えたことでアクションゲームの要素を強めた。続く『5』『6』でもこの傾向が強まり、「バイオ」は一人でホラーゲームを作り、そして終わらせたとさえ考える人もいる。

(北米ゲームシーンが独自の解釈で拡張したり、バイオ自身も『7』から再びホラーへと舵を切るのだが、これは後述)

しかし「バイオハザード」を語る前に、そもそも「ホラーゲーム」とは何なのか、もっと言えば、ホラーゲームのように「存在しない何か」に恐怖を抱くのは何故なのか、というテーマはあまり語られてこなかったように思う。

そこで本稿ではこの「ホラーゲーム」というジャンルそのものをまず定義し、そこから「バイオハザード」がどのようにこのジャンルを築き上げ、そして北米、特にインディーゲーム文化でホラーゲームがいかに発展してきたのかを語っていく。

恐らく現存するゲーム批評の中で最も「ホラーゲーム」について深く、長く語った文章になるので、ぜひ読んでいただければ幸いだ。


ホラーゲーム 唯一情動で定義されるゲームジャンル

まず『バイオハザード』及びホラーゲームを語る前に、そもそもホラーゲームとは何か?という問いから始めたい。というのも、実はホラーゲームは(他のゲームジャンルよりも)極めて特殊なゲームジャンルでありながら、それが意味するところについて語られず、「どのホラーゲームが良いのか」という疑問があまりにゲーマー個々人の主観的な経験から述べられているからだ。

例えば、「ホラーゲーム」は数あるジャンルの中で恐らく唯一、ゲームプレイから得られる「情動」に準じて定義されるゲームジャンルだ。ふつう、ゲームジャンルは「何をするか」というルールに準じて名前が付けられる。レースゲームといえば競争をするし、RPGといえばロールプレイが少なからず含まれる。アクションであれば身体的な動きを求められ、ストラテジーというからには戦略が問われる。

一方、ホラーゲームはこうしたルールやゲームデザインは一切含まれず、あるのはただ「ホラー」な情動が得られるのかどうか、という一点だけだ。このようなゲームジャンルは極めて珍しい。

その上、「ホラーゲーム」の「ホラー」からして中々に厄介である。何故なら我々はどんなことに対しても恐怖を抱くことがある。例えば「妖怪」や「ゾンビ」のようなフィクションに恐怖を抱くこともあれば、「怖い顔をした人間」「武器を持った人間」など現実の人間も恐怖の対象になるし、人によっては「とがったもの(先端恐怖症)」「高いところ(高所恐怖症)」といった抽象的な概念にも恐怖を抱く。ヒッチコックは鳥すら恐怖の対象として描いてみせた。

そんなわけで、「ホラーゲーム」というジャンルはかなりあやふやだ。そもそも「恐怖」という情動自体がよくわからないし、ましてその情動を得られるゲームが「ホラーゲーム」というのはもっとよくわからない。「僕・私はホラーゲームが好きだ」と考える人は今では珍しくないが、一方で、現状ホラーゲームはほとんどまともに定義されず、従ってホラーゲームを語ること自体が中々困難なのである。

実際、SIEの「今月のPlayStation」でまとめられたホラーゲームを見ると、誰もがホラーゲームと認めるようなものから、逆に「それはホラーゲームなのか?」と思わず疑問を抱くような作品まで並んでいた。このように、ホラーゲームの定義はとても曖昧なのだ。

章題は「恐怖に打ち勝つ」。しかし打ち勝ってしまうと恐怖ではないような気もする。


そもそも「ホラー」ってなんだ

そこでまず、「ホラーゲーム」における「ホラー」の根源を、哲学者たちの知見を借りて考えてみよう。

ホラーとは、言わずもがな「恐怖」の情動を意味する。ではこの「恐怖」は具体的にどのような情動なのだろうか?哲学者の戸田山和久の『恐怖の哲学 ホラーで人間を読む』によれば、恐怖は主に「自分に害をなす可能性をもつ対象を認知すること」「いわゆる恐怖感、怖さを感じているときのあの感じ」「危険低減行動を促すシグナル」の三要素で構成される情動だという。

具体的には、まず人間が自分に危害を加える対象を認知する。ただしここでいう認知は、あくまで「危害を加える可能性」、つまり暗闇だとか足音のようなものであってもいいし、「間違った認知」、つまり壁に浮かんだシミや、統計学的にはむしろ安全な飛行機も含まれる。そして一度それらを認知すると、心臓の鼓動、動向の収縮、手足の震え、血中の白血球数の増加など身体的な反応から「恐怖」を自覚し(※)、そこから観察、逃避、攻撃、服従、おびえ、気絶などの行動が促される……これら一連の情動を「恐怖」とここで考えよう。

(※)これは実に興味深い話で、「認知」→「恐怖」ではない。戸田山が「恐怖しているときに全身で起きていることの、同時者視点からのモニタリングの総体」と言うように、恐怖の対象に対して身体が反応し、それを自身が認知して「恐怖」する。ただし身体のうち脳を含むか、脳のうちどの部分を用いるか、心理学や脳神経科学の中でも意見は割れる

このように、恐怖は必ずしも明確な対象に抱くものではないし、そもそも冷静に「恐怖しよう」としてするものでもない。よくわからないも、あやふやなものにも恐怖を抱くが、一方で恐怖心は様々な身体的な活動としてはっきり測定できる。そしてそれは、自分を守るための合理的な判断に繋がるわけだ。恐怖は生物が生き延びるための大切な機能であり、もし何事にも恐怖を抱かなければ、人類が今日のような繁栄を謳歌することはなかったであろう。


存在しないものを何故怖がれるのか 恐怖のパラドクス

ただしここで疑問が一つ湧く。仮に恐怖が身体的反応に基づくものであれば、なぜ、「ホラー」と呼ばれるフィクションに恐怖を抱くことができるのかだ。ホラー映画にしろ、ホラーゲームにしろ、実際のところ「映像を見る」「ボタンを入力する」という点で安全なままだ。であれば、どうして我々はカックカクのポリゴンで出来たケルベロスやタイラントに恐怖することができたのだろうか。

この「存在しないものに恐怖を抱く矛盾」は「恐怖のパラドクス」とも言われ、多くのホラーファンたちを悩ませてきた。そして、このパラドクスに正面から向き合ったのが、現代思想の第一人者であるノエル・キャロルだ。ノエルは自著『ホラーの哲学』(1990)の中で、以下のように考えた。

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