『僕たちはどう生きるか』レビュー
森田真生さんの『僕たちはどう生きるか』を読んで印象に残った文章をもとに振り返りを書こうと思う。
現代の人間は他のどんな生物よりも賢くて、できないことなんてない、全ては人間を中心に世界は回っている、というふうに感じていることろが少なからずあると思う。そんな中の地球温暖化、未知の感染症の流行、踏み入れてはいけない領域に足を踏み入れそして自分達の生命を脅かす自体を巻き起こしてもまだなおそれを直視せず突き進んでいる。
何でもできるという万能感。でも薄々気付いていたりもする。このままではいけないんじゃないか、何か違うんじゃないかと。私にはその違和感があり、この言葉でストンときた。自然をコントロールしようとしているけれど、自然から見たら人間なんて到底及ばなくて、そしてそれにすら気付いていなくて。人間同士で関わる時間が多過ぎて、そして人間以外と関わるときもそれを理解してどうにかしようという気持ちで関わっている。そうではなく、そのもの、その存在に耳を傾けてみようと思った。どんな意味があるか、なぜか、とかそういうのじゃなくそのものの存在に。
教室に座って教科書を読むことだけが学びじゃないとはよく聞くけれど、この文章の「他者に侵される契機」という言葉がとても印象に残った。教科書を読んでわかったことって、それはそこでの単体の出来事でそれがどう自分達の実生活に結びついているのかいまいちピンと来なかったりする。
それよりもまずは生身の人間との関わり、そして人間以外のものと接触することで色々なことを感じ、体験として自分の中に蓄積する。その蓄積がたくさん溜まった上でさらに新たなものに出会い、それらの点が線になっていくこと。それらが生きることと連続している実感を持つこと、それこそが学ぶというこなんじゃないかと気付かされた。
昨今の地球温暖化や動物が絶滅していくこと、など人間による環境破壊で地球がどんどん蝕まれていく事実を目の当たりにすると私はとても怖くなるし暗い未来しか描けなくなるし、子どもたちのことが心配で仕方なくなる。人間のせいでこんなにも苦しめられている生物がいるのに人間は今まで通り生きてそしてさらに人間の利益のために突き進んでいて良いのだろうか、このまま生き続けて良いのかとすら思ったりする。でも、この私一人にできることはとても限られていてそして何かしようとしても何も変わらない現実に悲しくなったりするけれどこの文章で少し前に進めそうな気がした。
もう遅いこともあるけれど、それでもまだ私たちは自然からとても多くのことを受け取っている。四季のうつろいから様々な感情を湧き起こしたり、涙が出るほど美しい景色に出会ったり、何よりも他の生物がいるからこそ私たちはこうして生きている。綺麗なオフィス街とか、とっても清潔な家も憧れたりもするけれどそれはやはりどこか窮屈で大自然の中で、自分も自然の一部だと感じる瞬間が必要でそれを心地よいと感じる心を人間は持っている。だからまず、子どもたちには恐怖で煽るよりも「こんなに自然て素敵なんだよ!」とか「人間も自然の一部に過ぎないんだよ」ということを知識ではなく感覚として持てるように伝えていきたい。そして自分も今与えられていることに無自覚にならずに感謝して生きて行こうと思えた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?