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今週の言葉 尾畑文正 「生老病死」ではなくて、 「生老病殺」の問題こそが、 今日の日本社会に おける現実の死の問題ではないか。  上原専禄 (うえはら せんろく)毎朝のお朝勤の後にポルトガル語の仏教書を少しづつ読みます。日本語翻訳あり。

おはようございます。 今日も一緒にお参りをいたしましょう!
Bom dia a todos! Vamos juntos rito matinal.

『大無量寿経』(巻上)
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%8F%E8%AA%AC_%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C_(%E5%B7%BB%E4%B8%8A)
『大無量寿経』(巻下)
http://labo.wikidharma.org/index.php/仏説_無量寿経_(巻下)


Grande Sutra da Vida Imensurável (1)
https://www.dropbox.com/s/4jizvk1admnv3rm/sutra%20Buddha%20vida%20infinita%20-%20parte%20um.doc?dl=0
Grande Sutra da Vida Imensurável (2)
https://www.dropbox.com/s/o1uj62burt5yizf/sutra_Buddha_vida_infinita_-_parte_dois.doc?dl=0

BU" SE' MU RYÔ JU KYÔ (Pronúncia japonesa)
https://www.dropbox.com/s/jb3zfnv4qhzoya0/BU%22%20SE%27%20MU%20RY%C3%94%20JU%20KY%C3%94%20KAN%20J%C3%94.pages?dl=0

今週のことば

尾畑 文正 (おばた ぶんしょう)

「生老病死」ではなくて、 「生老病殺」の問題こそが、 今日の日本社会に おける現実の死の問題ではないか。        上原専禄 (うえはら せんろく)

仏教は人間の苦悩から始まる。 釈迦は生老病死の四苦からの解放 を求めた。 この生老病死を生老病 「殺」として社会的死を問うたのが 歴史学者上原専禄師だった。 師は 病気の妻の死を通し、その死は当時の医療や社会、それらを支える自分にも潜む命の蔑視観念の犠牲であり、それは「殺」の問題ではないかと提起する。私はこれを受けてこの「殺」の問題を戦争との関わりで考えている。 地獄と喩え られる戦争は究極の人権侵害であり、人間の苦悩として仏教の課題に他ならない。 それが今、ウクライナ惨状を極めて起きている。

戦火を逃れて避難する人の中 に、重い足取りで頬に涙を流して 歩く少年をテレビで見た。 悲しみで覆われた姿に戦争の虚しさが溢 れていた。世界は平和を求めて武 装し戦争をする。 この矛盾撞着する現実、暴力の連鎖を超える道はないのか。 少年の涙は「殺」とし ての戦争を世界(私)に厳しく問 いかける。
(同朋大名誉教授)


Citação da Semana

Bunsho Obata   


O problema da "vida, idade, doença e morte", em vez de "vida, idade, doença e matar", é o verdadeiro problema da morte na sociedade japonesa de hoje.     Senroku Uehara

O budismo começa com o sofrimento humano. O Buda procurou a libertação dos quatro sofrimentos da vida, do envelhecimento, da doença e da morte.
A historiadora Uehara Senroku questionou a morte social da vida, do envelhecimento, da doença e da morte como "nascimento, envelhecimento, doença e morte" e "morte". Através da morte de sua esposa doente, ele sugeriu que sua morte foi vítima da visão desprezível da vida que estava latente no tratamento médico e na sociedade da época, assim como em si mesmo, que os apoiava, e que era uma questão de "matar". Em resposta a isto, tenho pensado sobre esta questão de "matar" em relação à guerra. A guerra, que é metaforicamente chamada de "inferno", é a derradeira violação dos direitos humanos e, como uma aflição humana, é nada menos que uma questão budista. Isto agora está acontecendo na Ucrânia da maneira mais devastadora.

Entre os evacuados que fugiram da guerra, vi um menino caminhando com degraus pesados e lágrimas correndo pelas bochechas na TV. O vazio da guerra estava transbordando em sua tristeza. O mundo está armado e em guerra em busca da paz. Existe alguma maneira de superar esta realidade contraditória e o ciclo de violência? As lágrimas do menino fazem o mundo (e eu) fazer perguntas difíceis sobre a guerra como "matar".
(Professor Emérito, Universidade Dohō)


誓願論
 
上原專禄


http://kawasumi.html.xdomain.jp/shiryo/senroku02.htm

そこで考えるのですが、問題を生老病死としてとらえる、つまり、生死としてとらえるのと、生者と死者とのかかわりとしてとらえるのとでは、一見同じようであるが、実は少し違う、いや、相当違うかも知れない。といいますのは、ユダヤ教、キリスト教、イスラムにおいても、また仏教においても、そこで説かれ且つ教えられてきましたものは、いわば自然に与えられるもの、避けることのできない運命的なものとして立ち現われてくる、そういう自然の事態のようなものとしての死についてであった、と思うのであります。実際、たとえば釈尊という方が死というものをそういうふうにだけ考えていられたかどうかは、本当に腰をすえて勉強しなければわからないんですが、普通には、死というものをいわば与えられた、避けることのできない、非人為的な自然の事態として受けとめていられた、というようにいわれてきたと思われるんですが、私の家内が死んだときには、いわば自然死を死んでいったというふうにはどうしても思えなかったのでありまして、家内は社会の仕組みの中で、邪悪な心の人たちによって殺されていったのだ、という感じが強いのであります。その邪悪な心というものは、第一、医者の怠慢、医者の不注意、医者における生命の蔑視として現われると同時に、医者でない多くの人びと――その中には親類縁者や無人がたくさん含まれている――における忘恩として現われる。家内に、一人の人間として背負うことのできないほどの心配と苦労をかけながら、かえって家内を侮蔑し冷笑している、そういう人間もたくさんあって、それが家内を病身にさせてきた、と思われる節があるのでございます。そこへもってきて医者の不注意、怠慢、無責任というものが折り重なって死んでいった、死なざるをえない状態につき落されてしまった。大事な点は、そのことを死んでいった家内自身がはっきり意識していた、ということです。「死ぬのはちっともいやではないが、こういうことで死んでいくのはいやだ」と家内はなげきました。つまり家内は、ただ死んでいくんではなくて、殺されていっているんだ、ということを自覚していたわけです。そういう死者をみますと、こういう場合の死を、たんに自然の死であるとか、生老病死の運命の実現であるというように、哲学的に、あるいは人生論的に淡々と迎えることは私にはどうしてもできない。そういう死にぶつかった私としましては、死者の思い、死者というものの持っていた問題を、生き残っている人間としてどう受けとめなければならぬのだろうか、どう受けとめることができるのだろうか、どう受けとめたときに正しい受けとめ方といえるのか、というような疑問がそれからそれへと沸き上ってまいりました。

いずれにしても、今日の、少なくとも日本社会における死ということは、仏教で長く教えられてき、問題として取り上げられてきた、宿命的な生老病死ということの一つとしての死というような、そういう透明なものではなくて、社会の仕組みの中でどろっと殺されていくことを意味すると同時に、そういうことを困ったもんだと慨嘆している当人自身が、やはり殺す側に加担しているんではなかろうか、という二重の危慎があるわけであります。昨年4月家内が死んで以来、そういう問題がたえず私の頭と心の中を往来しているのであります。今日の日本社会においては、単純素朴な死というものはありえないのではないか。人びとは、正義によわい社会の仕組み、その中に生きる正義によわい人びとの邪心によって殺されていっているんではないのか。それと同時に、その殺す作業に私自身が参与しているということがありはしないか。要するに、「死」の問題ではなくて、殺の問題、「生老病死」ではなくて、「生老病殺」の問題こそが、今日の日本社会における現実の死の問題ではないのか。そういうふうに私は考えざるをえなくなっているのであります。


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