ヒカルド・マリオ・ゴンザルベス教授 ー正信偈ノートー 『正信偈についての考察』 『法華経』の第二章「救済の巧みな方法について」「方便品」 毎朝のお朝勤の後にポルトガル語の仏教書を少しづつ読みます。日本語翻訳あり。
おはようございます。 今日も一緒にお参りをいたしましょう!
Bom dia a todos! Vamos juntos rito matinal.
今日は観無量寿経です
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E_%E8%A6%B3%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C
O Sutra da Contemplação da Vida Imensurável
http://jodoshinshu.com.br/budismo-terra-pura/sutra-da-contemplacao-da-vida-imensuravel/
Já no “Sutra do Lótus”, no Capítulo II, intitulado “Dos Hábeis Meios Salvíficos” “Hôbenbon”, há a seguinte exposição:
すでに『法華経』の第二章「救済の巧みな方法について」「方便品」の中で、次のように説かれているのである。
Os diferentes Budas, Honrados do Mundo, se manifestam neste mundo devido a uma única e importantíssima razão, Sariputra! Qual é a assim chamada única e importantíssima razão da manifestação dos diferentes Budas no mundo? Os diferentes Budas, Honrados do Mundo, se manifestam no mundo para despertar a Visão da Sabedoria Búdica nos seres e fazê-los alcançar a pureza. Eles se manifestam no mundo porque desejam mostrar a Visão da Sabedoria Búdica aos seres. Eles se manifestam no mundo porque querem que os seres despertem para a Visão da Sabedoria Búdica. Eles se manifestam no mundo, desejosos de fazer com que os seres ingressem no Caminho da Visão da Sabedoria Búdica. Tal é, Sariputra, a chamada única e importantíssima razão da manifestação dos Budas no mundo.
さまざまな仏陀、世界尊がこの世に現れるのは、たった一つの最も重要な理由によるのだ、シャーリプトラよ。この世にさまざまな仏が現れる、いわゆる唯一無二の理由とは何でしょうか。さまざまな世尊がこの世に現れるのは、衆生の中に仏陀の智慧を呼び起こし、清らかさを獲得させるためである。彼らは、仏陀の智慧を衆生に示すために、この世に現れているのです。彼らがこの世に現れるのは、衆生が仏陀の智慧に目覚めることを願うからです。彼らはこの世に現れ、衆生を仏陀の智慧の道に入らせようと願っているのです。このような最も重要な理由は、シャーリプトラ、この世に仏陀が顕現した理由である。
Segundo o Prof. Ocho Enichi, da Universidade Otani, especialista em Budismo Chinês, os dois Sutras expõem o mesmo princípio, mas enquanto que o Grande Sutra expõe claramente o Nembutsu como via de salvação acessível a todos os seres, o Sutra do Lótus nada diz concretamente sobre caminhos ou métodos.
中国仏教に詳しい大谷大学の横超慧日教授によると、両経典は同じ原理を説いているが、『大無量寿経』が念仏を万物に通じる救済の道として明確に述べているのに対し、『法華経』には道や方法について具体的なことは何も書かれていないと述べています。
参考 Referência.
『妙法蓮華経方便品第二』
https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/1/02.htm#2-6
標出世本懐 (出世の本懐を標す)
[真読]
所以者何。諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。舎利弗。云何名諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。
[訓読]
所以は何ん、諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう。舎利弗、云何なるをか、諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもうと名くる。
◎正釈真実 (正しく真実を釈す)
[真読]
諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世。
[訓読] 諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。[真読] 仏告舎利弗。諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以仏之知見。示悟衆生。舎利弗。如来。但以一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三。[訓読] 仏、舎利弗に告げたまわく、 諸仏如来は但菩薩を教化したもう。諸の所作あるは常に一事の為なり。唯仏の知見を以て衆生に示悟したまわんとなり。舎利弗、如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二若しは三あることなし。
第四現在仏章
[真読]
舎利弗。現在十方。無量百千万億。仏土中。諸仏世尊。多所饒益。安楽衆生。是諸仏。亦以無量。無数方便。種種因縁。譬喩言辞。而為衆生。演説諸法。是法皆為。一仏乗故。是諸衆生。従仏聞法。究竟皆得。一切種智。舎利弗。是諸仏。但教化菩薩。欲以仏之知見。示衆生故。欲以仏之知見。悟衆生故。欲令衆生。入仏知見道故。
[訓読]
舎利弗、現在十方の無量百千万億の仏土の中の諸仏世尊の、衆生を饒益し安楽ならしめたもう所多き、是の諸仏も亦無量無数の方便・種々の因縁・譬喩・言辞を以て、衆生の為に諸法を演説したもう。是の法も皆一仏乗の為の故なり。是の諸の衆生の仏に従いたてまつりて法を聞けるも、究竟して皆一切種智を得。舎利弗、是の諸仏は但菩薩を教化したもう。仏の知見を以て衆生に示さんと欲するが故に、仏の知見を以て衆生に悟らしめんと欲するが故に、衆生をして仏の知見の道に入らしめんと欲するが故なり。
横超慧日 論文集 無料で読めます。 o Prof. Ocho Enichi Papers lê de graça.
親鸞と天台学--三願転入と五時教判との関係について
一部抜粋
親鸞はここに於て、三経の中では何れが仏の真意である かを究明することに腐心した。そこで問題は、次に仏の真意を把握するには何を基準として探究すべきかということに移って行った。それは仏陀出現の目的は何ぞやという問 に答えた経文に根拠するより外に道はあるまい。では仏陀 出現の目的を明かした経があるか。 法華経は、如来の出世 本懐を明かした経として、普く知られている。その方便品 には、仏の智慧と智慧門とが甚深難解なるを称した後、 仏は「その仏智を一切衆生に開示悟入せしめる」という目 的を以てこの世に出現したとなし、仏がこのことを説き示 すのは優曇華(訳、霊瑞華)の時に一たび現ずるが如くであ ると言われている。然しその法華経では、衆生に仏智を開 示悟入せしめるのが出世の一大事因縁だとは説かれていても、浄土往生を主として説いたのではないのであるから、 それを以て直ちに浄土三経の中での真仮を判定する標準と することはできないであろう。ところが幸に浄土三経自体を見るの中に、仏出世の目的を明かした経があった。それが大経 であったのである。大経によれば、仏が世に出現した目的 は、「道教を光して群萌を払い恵むに真実利を以てせ ん」とするに在る。そうした群萌に真実を与えようとする 仏に値遇することは霊瑞華に遇うようなもので、仏の智慧 は量り難く広大で導御する所多いと云われている。これ仏の出世本懐を明かしたと言われる法華経方便品の文と、そ の説相正しく符合する所ではないか。これによって、衆生に 仏智を得せしめようという法華経の精神は、そのまま大経 の中に同じ趣旨の根本的開明として叙べられているのが見 出されたのであった。仏の出世本懐が、経によって種々所 説を異にすることありとすればおかしな話であろう。 出世 本懐はどの経に於ても一貫したものでなければなるまい。
然し一貫した出世本懐も、それの実現方法に至っては、それを原則論として説くか具体的方法を明示したものとして説くかに於て、差異を来たすこと不思議でない。こうした見 地から、終極的に真実の具体的方法を明示して説かれたも のが外ならぬ大経であったと、親鸞は見たのである。教行 信証は、見方によってはその論証をなしたものと言ってよいと思う。 教行信証の冒頭に真実の教を顕わすものを大無 里寿経なりと断定したのはまことに重大な決定であった。
親鸞聖人と涅槃経
横超 慧日
親鸞教学/SHINRAN KYOGAKU The Otani Journal of Shin Buddhism,(8),84-95 (1966-07-01)
Extrato.
Pensa-se que foi por causa destas perguntas que o santo foi obrigado a descer a montanha e rezar em Rokkakudo. Assim, para o santo, foi o Lotus e o Nirvana que abriram o caminho para o Nembutsu, e foi Honen Shonin quem lhe deu a decisão de fazê-lo.
一部抜粋
親鸞聖人が比叡山で学ばれたのは何であったか。天台宗では五時の教判を立てて法華湼槃を真実至極の教と し、その教に基づいて四種三昧の修行をせよと教えられて、さた。然し己が機根を顧みれば、法華三昧にせよ常 行三昧にせよとても如法に修せられる身とは思えない。それどころか『湼槃経』には末世法滅時のありさまが 詳述せられ、度し難い一闡提の罪の深さがはびしく追及されているのに、山の生活は正しく法滅時の様相を呈 し、自己自身の姿は一闡提そのものではないか。聖人は恐らくこうした疑問を生じて法華と涅槃とを繰り返し 読みかえされたことであろう。 『法華経』は果して四種三昧の修行を我々に要求しているのか。 『涅槃経』は持戒清浄でなければ救われぬとして梵行を命じているのであろうか。天台宗で最高の教と説くこの二経をもう 一度天台の立場を離れて読みな袒してみると、 『法華経』には、 一切衆生を救うのが如来の出世本懐だから、 地獄に堕するよりも恐るべきこととせられた二乗地の者が仏の本願によって救われると説かれていた。又 『涅槃経』 には必死不可治の機として全く救いの道のないとされる一闡提さえ、仏の大悲は見捨てることがないと 言われていた。そしてそうした大悲本願の主を『法華経』には久遠実成の仏だといい、 『涅槃経』には寿命長 遠の仏だという。そうだとすればそうした寿命長遠の仏が一闡提の者 でも救われるということの具体的な道 を説いた経がないはずはなかろう。聖人をして山を下りて六角堂に祈らせたものは、正しくこうした疑問が湧 いてそれに堪えられなくなったためだと思われる。かくて聖人にとって、念仏への道を開いたものは法華と涅 槃であり、それに決定を示したのが法然上人であったと考えられるのである。
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横超 慧日
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