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『本棚から読む平成史』(河出書房新社)のトークイベントを終えて


7月9日に神保町のブックハウスカフェで、『本棚から読む平成史』のトークイベントが行われました。読売新聞の「平成名著50」として一年以上かけて連載した書評をまとめた本の書き手が思いの丈を話すという会でした。ノンフィクション作家の梯久美子さん、生物心理学者の岡ノ谷一夫さんと私の3人が本について語りあいました。司会は、この連載を企画した読売新聞文化部の待田晋哉さんです(当日は敬称はすべて「さん」で通したので、ここでも皆さん「さん」づけにします)。


当日はそれぞれがお声がけした方々を中心に40名ほどの方々が集まり、和やかにトークは進みました。著者の三人は、読売新聞文化部の日曜書評欄を担当する「読書委員会」のメンバーでもあったこともあり、この委員会の同窓会のように集まった方々も多く、何とも懐かしい場でした。新しくお会いした方々も本を通じての交歓という雰囲気の中、旧知の方であったかのように親しみを感じました。私自身お声がけした方々も話ながらお見かけしており、ありがたく、また嬉しいひとときでした。やっぱり本を介する出会いとは一味も二味もちがうなあと今さらながら思いました。

読売新聞での連載企画では、平成という時代の名著を選ぶことがテーマでしたので、私は社会科学を中心に、梯さんは文学・ノンフィクションを、岡ノ谷さんは自然科学関係をそれぞれまずは念頭に起きつつ、そこからウイングを延ばして他分野でも「これ」という本を取り上げつつ、最後は50冊になるよう調整していきました。会場では、「なぜこの本なのか」「ここで取り上げなかったけれど取り上げたかった本はどんな本だったのか」といった質問が出ましたが、まさにそこが核心だったのではないかと今振り返って思います。

内心では、たとえばいいなあと思った本に、震災後の宮城県石巻市大川小学校の被災者を描いたリチャード・バリー『津波の霊たち』や、未来社会のSFハードボイルドのトム・ヒレンブラント『ドローンランド』などが思い浮かびます。仕事柄海外の知的動向が気になるからかもしれませんし、多くの場合、日本で将来起こるであろう出来事は海外の著作で先取りされることもあり、日本で類書が多いものについて海外の書き手の秀作が際立つからかもしれません。しかし、「平成の名著」ともなれば、基本は日本の書き手の本を取り上げた方がよいでしょう。実際今回は、海外の書き手で私が選んだのは、サミュエル・ハンティントン『文明の衝突』、トマス・フリードマン『フラット化する世界』、トマ・ピケティ『21世紀の資本』でした。こうした本格的なグローバルな視点をとる本は、日本に住む日本人の書き手には難しいだろうと見ています。そこで、政治、社会、経済の各分野からこの三冊はとりあげてみたわけです。

そこでいくつか気づいたこと、当日話せなかったことを書いてみようと思います。

ノンフィクションをどう読むか

1つは、ノンフィクション分野への目配りです。次代へと流れゆく時代の底流をつかみとる作品は、やはり時代の鏡ではないかと思います。そして、今回の『本棚から読む平成史』では、3人の編者が話しあって、積極的にノンフィクションをとりあげたことが特徴となっています。文芸書ならば定評のある本がすぐに出揃うのですが、ノンフィクションは、それぞれ個性豊かですので、テーマから内容からよく考える必要があるのではないかと思います。

とはいいながら、選本にあたっても、まだまだ先が読めないところもあります。私自身が選びきれなかったのは、たとえば渡辺一史さんの『こんな夜更けにバナナかよ』のような、障がい者の自立の問題などは、まさに令和の時代の中心的なテーマかもしれないと、時代が切り替わった今強く感じ始めています。こうした本を選ぶ基準がまだ熟していないのではないかという見通しはあったのですが、それでも選び取るとすれば、確かな見識と同時代への豊かな感受性が求められ、今の自分にはまだまだない分野が多々あると思わざるを得ませんでした。


時代の鏡となる本

そう考えると、時代の名著とは、完成版であって、あとにはぺんぺん草も生えないようなその瞬間の完璧な本(学術書にまま見られるのですが)ではないだろうということです。たとえば学術書にそうした本はいろいろあります。それでも平成の名著となるなら、突き抜けた鋭角によって時代を切り裂き、しかも破綻寸前の箇所がいくつもあり、そうしたアンバランスを様々に乗り越えようと後続が現れてくるような本が、時代の名著にふさわしいのではないかと考えています。ただ、そうした本は、やがて「古典」となる本なのでしょう。時代の終わりに時代の名著を考えるとは、ある本が「古典」へと踏み出すプロセスをあとづける営みであったのかもしれないと思っています。実はそうした本になるかと密かに思いながら、今回とりあげずにしまっておいた本の一つは、渡辺浩さんの『日本政治思想史』でした。

もっとも、選び切れなかった本については、まだまだ書き手は健在であるケースがほとんどですので、トークイベントでも言いましたが、ぜひ令和時代にもっといい本を書いていただいて、また次の時代の区切りに名著かどうか評して貰えばいいのではないかと考えています。


次世代へどう継承されるか

今回最後の10年については選本にあたって、次世代への継承を象徴するような本を読むとりあげようと知恵を絞りました。ここはやや自由に選んでもいいだろうと考えて、オーラル・ヒストリーから堤清二×辻井喬『わが記憶、わが記録』を、若手の活きのいい書き手として落合陽一『日本再生戦略」、ローマ法学・ローマ史の木庭顕『法は誰のためにあるか』をとりあげました。特にあとの2つについては、書評を新聞に掲載する前に、落合さんが物議をかもす発言をしてネットで派手に炎上したり(対談の相手の乱暴な発言を真面目に受け取りすぎたのだろうと見ていました)、木庭さんが当の本で紀伊国屋じんぶん大賞を受賞されたり、木庭さんご自身が朝日賞を受賞されたりと、同時代の本ならではの出来事に囲まれつつ「名著」として論ずるというなかなかない経験を得ました。

こうした「継承」の記録であるというのは、それぞれの特徴があるからです。オーラル・ヒストリーは、世代から次世代へと経験を聞き取り保存する作業です。また落合さんの本については、NEWSPICKSというインターネットメディアでの発言を編集し、幻冬社から出版するという今風のコラボレーションで世に出ています。そして木庭さんの本は、中学生・高校生へのセミナーの記録です。古典を長年研究された姿勢に感応する若者の姿を見るだけですがすがすがしい気分になります。

と、ここまでは準備していたときに考えていたことだったのですが、今回トークイベントとその後他の書き手の方や、編集者・記者の皆さんといろいろと話す中で思い当たったことがありました。

それは、「次代への継承」とは、コラボレーションの産物だったということです。オーラル・ヒストリーは、語り手と聞き手の共同作業ですし、聞き手が複数であることも多く、そこにはテープ起こしの専門家など、様々な人が関わります。落合さんの本は、若手の鋭い発言をどうブックフォームにするか、が様々な工夫の跡が見られます。そして、木庭さんの本は、授業という教える側と学ぶ側とのやりとりが読みどころであり、それこそコラボレーションそのものです。

すぐれた本が書き手だけでできあがっているわけではなく、そもそもの執筆の段階がさまざまな人たちとのやりとりが土壌になっていたわけですし、編集者など本の作り手とのやりとりが密になってはじめて良書となるわけです。これが紙媒体の本の最大の特質になっており、インターネット上のエッセイの多くが、そうしたやりとりではない一時の心の動きをそのまま映し出したものにとどまっている(中には特に音楽や映像の中で作り込まれたものが出てきているわけですが)のとは、大きく異なるのではないかと見ています。


おわりに

今回のトークイベントでは、いろいろな方にお会いできました。なお、連載中からお会いしたことがないのに、SNSを介してやりとりが始まった人もいました(今日noteをひさしぶりに書いてみたのも、当日触れた本の著者の方とおぼしき人とすこしつながったようなことがあったのも一つのきっかけです)。本がつないだ出会いはやはりすばらしいものだと実感しています。書評を書いてものの少し気になっていた本については、お会いして書き手の方の受け止めをうかがい、ほっとしたといった瞬間もありました。今回掲載した写真をお送り頂いたバードランドさんには厚くお礼申し上げます。何と言っても梯さん、岡ノ谷さん、読売新聞文化部と読書委員会の皆様、そして河出書房新社の岩本さん、どうもありがとうございました!



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