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「おしまいから読んでみよう――さかのぼりオーラル・ヒストリー」を、御厨貴編『オーラル・ヒストリーに何ができるか』(岩波書店)に寄稿しました。

3月末に公刊された、御厨貴編『オーラル・ヒストリーに何ができるか』(岩波書店)に、「おしまいから読んでみよう――さかのぼりオーラル・ヒストリー」と題したエッセイ風論説を寄稿しました。

https://www.iwanami.co.jp/book/b440427.html

全体に論文集に近い仕上がりですが、あえて柔らかいタイトルとしました。研究会を重ねた結果なので、論文が多く収録されています。こうしたオーラル・ヒストリーの可能性を様々に問いかける論文の中で、私が目指したのは、オーラル・ヒストリーをどう読むかという問いです。面白い記録でなければ、誰も手に取りはしないのではないか。より面白く読むにはどうすればよいか、といった問題意識のもとに考えてみました。

オーラル・ヒストリーという記録については、そもそもが語りであり、質問と応答という形で進むため、読みやすいようでもあり、だらだらと応答が冗長に続いているようにも見えます。私自身さまざまなオーラル・ヒストリーの記録作成を行っていますが、多くの場合は直接当人の話を聞く瞬間がまずは楽しいのです。その上で記録を読むと、臨場感とともに話を聞いたときを思い出します。だがそれでは多くの人に読まれないのではないかという疑問が次第に大きくなってきました。見渡すと、オーラル・ヒストリーを語るのは、そこに参加した当事者です。その場に居合わせない人を置き去りにしてはいないだろうかと思い始めたのです。

そこでこの一文で提案しているのは、最初からあえて読まないという手法です。

最初から読むと、聞き手の問いに語り手が答えるという順序で読み進めます。あたかも事態は、聞き手がコントロールしているように見えてきます。

しかし本当にそうでしょうか?語り手は、聞き手の意思とは別に脱線したり、自分の思いを語ったりしているのではないでしょうか。政治家や官僚を相手にすることが多い私の場合、そうした語り手は、状況全体を見渡すリーダーであることが多いのですが、百戦錬磨の人たちが、若い聞き手の言うがままに振る舞っているわけではないのではないかと考えついたわけです。

こうした想像は、聞き手にとってはつらいものです。聞き手は相当の準備を重ねてオーラル・ヒストリーの現場に臨んでいます。何かを聞きだそうとしているわけです。「どこまで聞き出せたか?」という問いを抱えながら質問を重ねていきます。もしかすると、そこでは聞き手とはまったく別の意思で話題が進んでいるかもしれません。しかしそうだとしても、質問とその応答に集中している聞き手は、とても現場ではそこまで意識が回らないのです。

しかし、読者は、こうした質問中心の読み方にしばられず、自由に読み込むことができるはずです。それこそ現場に居合わせない読者による自由な読み込みではないでしょうか。こうして自由に読むためには、質問を外して読むことが有効となってくるのです。

では、質問部分を飛ばして最初から順に読んでいけば読めるかというと案外そうはいきません。多くのオーラル・ヒストリーは生誕から引退まで、あるいは出来事の発端から終結までという時系列で語られます。最後の最後がわからないとどうしても質問への応答をとらえようとしてしまいます。

しかし、答える側は、引退後の眼差しや、事件の終結地点から、最初の時点を振り返っているのです。聞き取りの最後の語りの時点から全体を振り返っているとも言えます。もちろん厳密にいえば、オーラル・ヒストリーでは数年かけて聞き取ることも多いため、最初の語りの部分と最後の語りの部分では数年の差があります。しかし、やはり終わりの時点から振り返っていることだけは確かです。

だからこそ、本のおしまいの箇所、全体を振り返ったりする語り手の心象風景を踏まえた上で、記録を読むことが重要となってきます。そうした気分を、語り手は、いくらかでも語りの最初の時点から抱えているのではないかというわけです。

ここではおしまいから読んでみることを「さかのぼり」と読んでみました。頁をが逆に繰ってもいいですし、最終章から順番にさかのぼって章から章へと読んでもいいでしょう。

最終章から読んでいくと、質問部分はあまり気にならなくなってきます。語り手が何を言いたいのか、を丁寧に拾って読むわけです。すると、後半のある話題は、前半のある話題で接続していることがかなりはっきりと見えてきます。最初から読むと、前半部分は読者にとっては語り手のひととなりを徐々に知りながら読む部分であって、質問の応答にどうしても目を奪われがちです。そうした読みにしばられない読みとしては、(最初から読むだけではなく)おしまいから「さかのぼって」読んでみるという読み方が有効だというわけです。

特にこれが有効なのは語り手をあまり顧慮しない宮澤喜一のオーラル・ヒストリー『聞き書 宮沢喜一回顧録』(岩波書店)です。10年ほど前に、これをある場で評釈する機会があったのですが、うまく評しきれませんでした。内容がつかみづらいという手応えでした。今回は再挑戦に取り組んでいます。特に「さかのぼり」をすると、宮澤自身がオーラル・ヒストリーで「語らせられる」とはどういうことかを言っているように見える箇所があることに気づきます。人の顔を描いた絵が、さかさまにすると別の顔が浮かび上がるという仕掛けの隠し絵がありますが、そうした仕掛けがある記録なのでは、と考えています。

オーラル・ヒストリーはここ20年ほど急速に発展してきた分野ですが、まだまだ発展途上です。このエッセイ風論説は、そうした中で新しい読み方にチャレンジしています。

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