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「重ね読み」の楽しみ……堤清二×辻井喬オーラル・ヒストリーと野中広務オーラル・ヒストリー

 12月10日の『読売新聞』の読書面「平成名著50」で、西武セゾングループの堤清二=詩人・作家の辻井喬へのオーラル・ヒストリー『わが記憶、わが記録』(中央公論新社)を平成の名著として論評しています。また続けて11日発売の『週刊東洋経済』に、先日岩波現代文庫で新装再刊された政治家・野中広務のオーラル・ヒストリーについて、一文「元官房長官の口述記録」を寄稿しています。https://premium.toyokeizai.net/articles/-/19429


 
 二つの論説を寄稿して、改めて感じ始めているのが、オーラル・ヒストリーの蓄積が進んできたことです。新しい本が出たり、それが読み継がれたりすると、これまでのオーラル・ヒストリーと比較してみたくなるのです。つまり「重ね読み」ができるようになってきたわけで、「重ね読む」楽しみもまた増えてきたように思います。

 まず、堤=辻井オーラル・ヒストリーです。「平成名著50」では、それまで「聞き書き」として広く行われていたものが、オーラル・ヒストリーという「学問的手法」として認知されたのが平成に入ってからであり、世界的にオーラル・ヒストリーが学問的手法として定着していった流れと軌を一にしていることに触れています。この間様々な記録が作成されましたが、縦横無尽に分野を横断し、世界の当代一流の人物との社交的な交際を記録したものは類例がなく、時代を映し出すオーラル・ヒストリーという意味で、堤・辻井オーラル・ヒストリーが「平成名著50」としてふさわしいのではないかと考えました。またこの本は、聞き手にふさわしい先生方がそろっているように思います。御厨貴・鷲田清一・橋本寿朗の先生方です。やりとりとして読ませる本になっているように思えるのです。

 そして、野中広務オーラル・ヒストリーについては、なぜこれが今でも読まれるのかを考えてみました。読み継がれるオーラル・ヒストリーの先例と言えば、後藤田正晴オーラル・ヒストリー『情と理』(講談社+α文庫)です。ここで二つを読み比べてみることが可能になります。二つにはいろいろな共通点があります。遅くして国会議員になったことや、官房長官であったことです。二人とも官房長官時代の印象が強いわけですが、なぜ官房長官経験者だと読み継がれるのか?という問いも成り立つように思います(読み継がれたとまでは言えませんが味のある最近の記録に、野田佳彦内閣の官房長官藤村修オーラル・ヒストリーも毎日新聞社から出版されています)。


 首相という光ではなく、官房長官という「影」に惹かれるものがあるのではないでしょうか。そもそもなぜオーラル・ヒストリーのために聞き取りを重ねるかと言えば、今まで明らかになっていないことを聞き出すためです。特に首相官邸という場所は、機密性の強い闇の奥です。そこで官房長官が何を考え、どう決定したか。オーラル・ヒストリー特有の「息づかい」の記録には、首相官邸の動と静のリズムが表れます。それこそがこの二人のオーラル・ヒストリーの魅力になっているのではないでしょうか。官房長官時代以外の箇所でも、後藤田で言えば警察庁長官時代や政治改革本部長代理時代、野中で言えば自民党幹事長代理・幹事長時代についても、光の当たっていない部位の「息づかい」が見えてくるように感じとれるのです。

 オーラル・ヒストリーの「重ね読み」が面白くなってきたーーそれが現在の状況です。

 そこで最後に、もう一つ「重ね読み」をするならば、堤=辻井オーラル・ヒストリーも政治と文化のパトロン的な役割を演じた堤と創作者辻井はそれ自体が、影と光と言えるようにも思います。読者は、一冊の中に堤と辻井の「重ね読み」へと促されているのではないでしょうか。

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