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毫摂寺の歴史

真宗出雲路派 毫攝時報第78号より

親鸞の滅後、東国派遣の善鸞を二祖と仰ぎ、覚如の上足である乗専が、覚如の子善入を法嗣として寺基を定めた。爾来四代善智の代に、出雲路が南北争乱の場となったため、本末関係のあった証誠寺を頼って越前に移り、五代善幸のとき、光明帝勅願所の論旨を賜っている。勅願所論旨は十代善光時、後柏原帝、十二代善照の時も後陽成帝より賜っている。
毫攝寺は元亀元年、信長の兵火に巻きこまれて証誠寺に留錫することになるのであるが秀吉の除地朱印によって味真野に来ることになったのである。
折しも京都柳原大納言により入寺せられた善照の時、黒田周防(帰依し玄宣)は太子堂と社域、加えて全氏子を引き連れて現在地に毫摂寺を招聘した。

とあります。
筆者は大学で仏教史学を専攻していた時に乗専さまのお名前を初めて知りました。毫攝寺の寺基移転にお力添えをいただいた方なのかなと推察はするのですが、乗専さまが著した教学に関する資料には、なかなか出会えないです。
「乗専を出雲路派の開祖」とお話されている布教師さまも動画でお見受けします。もしどなたか、乗専さまの教学や布教伝道に関する著書を知っていらっしゃる方がいましたら筆者(教学部長)まで教えていただけませんでしょうか。知っておくべきことは知りたいと考えています。
ご協力よろしくお願いいたします。

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