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超越論的経験論再び

午前中は某芸大で非常勤。長らく準備中の仕事のためにドゥルーズについて話していて、ここしばらくは超越論的経験論が主題。カント的な超越論性の話しから始まって、蜜蝋の分析、モリヌークス問題、共通感覚論を経て、共通感覚論批判としての超越論的経験論のとば口まで来た。
さて、超越論的経験論が、諸感覚の非協和的協働を説き、諸感覚が協和的協働の軛を離脱しておのおのの限界にまで及ぶ諸能力の超越的使用という非人間的条件を描くものであることはいいとして、この過酷な経験の具体的な例として何をあげるのがいいのだろう。
常套は、ヒッチコックを臨界点とする(古典的)ハリウッド映画に対して、感覚-運動機能の弛緩した現代映画、それも視覚的映像と聴覚的映像が乖離した(ある時期以降の)ゴダール、ストローブ=ユイレ、デュラスといった、ドゥルーズが『シネマ』において分析しているある種の映画群をあげることだが、さすがにそれでは芸がない。藝術から例を取るとしたら何がいいのだろう。
ポップ・ミュージックに絞れば(シド・バレット脱退以降の)ピンク・フロイドは最悪の共通感覚=常識との馴れ合いで唾棄すべき例だろう。
ハイデガーの耐え難い藝術論を始めとして哲学者の藝術論には度し難いものが多いというのが一般的な評価だと思うけれど、メルロ=ポンティの共通感覚論や藝術論は案外捨てたもんではないというかかなりいけてるんではないか、と思い返した次第。メルロ=ポンティとドゥルーズ双方のセザンヌ論、真面目に読み返すか。いや、死後のメルロ=ポンティとも会うことが多かったらしい荒川修作を補助線にしてみるか。軽井沢に行く口実が増えた。(2023年6月28日)

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