見出し画像

In memoriam PANTAE(I)

ここ数年は、昨日への準備のような時期だったと思う。ちょうど二年前にオレが大怪我して入院していたとき、今も少し障害の残る短期記憶のリハビリのためにパンタの歌詞を覚えたのは、今から考えれば確認と別れの儀式の始まりだったか。同じ病室に小学生の男の子が寂しそうに入院していて(誰も見舞いに来なかったな、コロナのせいだろうけど)、ごくたまに看護師さんと遊んでいる姿を見たことがあったので「ステファン」、あとは、歌詞の長さで「裸にされた街」と「マーラーズ・パーラー」だった。

オレは父を肺癌でなくしているためにこの病気については人より多少知っていることもあって、肺癌ではないといいなとずっと願って来たものの、一時危篤から生還してきたときに病のことを聞いて覚悟は決めていて、それでも5月のステージを見たり、今後のスケジュールが既に多数組まれているという運営の方からのアナウンスを聞いていたので淡い期待を抱いていた。最後に一花咲かせて上げたいということだったのか。あっという間の出来事だった。

オレがパンタを初めて聞いたときのことは今でもよく覚えている。多分中二、グレコのレスポール紛い物を先輩の家にもらい受けに行ったときだと思う。その先輩がギターをコピーしていて、それがチャーのギター。今聞いてもかっこいいバックに徹した「屋根の上の猫」だ。そのアルバム『Pantax's World』をその時期に手に入れたかどうかは覚えていない。

次に鮮明に覚えているのは1977年。オレは中二か中三か。愛読していたギター雑誌に『走れ熱いなら』の広告が載っていて、鋤田さん撮影のパンタ、それも金と黒で彩られた写真にぐっと来たのだった。帯にある写真に惚れたのだった。確か、全身ヌードの写真もあるとか。(この項続く)

↓なんと素敵な!(真似して赤いジャケット着てみたいが、今のオレじゃチャンチャンコだ…)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?