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In Memoriam PANTAE(III)

PANTA&HALのフル・ライブを聴くことが出来たのは、1980年12月14日の仙台市民会館の一度だけか。ライブ・ヴァージョンしか残されていない「TKO NIGHT LIGHT」のかっこよさといったらなかった。(もちろん、当時、一万円札は「オレを嘲笑う」ことも「役立たず」でもなかった。)今、二つのライブ・アルバムを聞くと、『1980X』の有するタイトさが失われていて、フリクションらに比べるとその大仰さがオールド・スクール感を感じさせるものの、あの当時のオレは、あ〜かっちょええなーという言葉しかもてなかった。時間の前後関係は忘れてしまったが、東京FMか何かのスタジオ・ライブだったか、後に『CACA』に収録されることになる、「Melting Pot」と「Geard」の当時のタイトな演奏がオレは今も好きだ。
オレは京大受験に無事失敗し、PANTA&HALの解散ライブの広告を朝日新聞で見るが、肩身の狭い浪人決定者にライブに行く術もない。3月末だったかに、「ナイフ」の街、東京にオレは行くことになる。
3畳の貸間に住む駿台生、背水の陣を敷いている浪人生に余裕はないはずだが、それなりの息抜きはしていて、新大久保は百人町に住んでいた田中と遊ぶなか、高田馬場のアフリカン喫茶・バー「タムタム」に少しだけ出入りするようになり、確か近くに住んでいた竹田賢一の顔を拝んだこともあった。(田中は、一鍋幾らかでカレー仕込みのバイトをしていた。バナナを大量に入れていたな。マスターが西アフリカ放浪経験者だったので、ピーナッツバターを使ったセネガルの鶏肉煮込み料理マフェを初めて食べたのもこの時期。そうか、オレはここでもPANTAと交錯しているわけだ!ピーナッツバター!)山口昌男を読み始めたのもこの時期だから、今度、講談社学術文庫に入るアフリカ史への興味と、例えば店に転がっていた親指ピアノの記憶が交錯する。
さて、PANTAだが、浪人生時代は多分一度しか見ていないはず。オレはその頃から休刊に至るまで(『ぴあ』ではなく)『シティ・ロード』を購入していて、年間人気ランキングのようなものではPANTA&HALがロックバンド枠では堂々1位、解散後もPANTAは上位に位置していたと思う。東京ローカルバンドとしての誇りをPANTAは持っていた。8月リリースの『KISS』は聴いていてーーしかし、どうやって聴いたのだろう?プレイヤーなど持っていなかったはず、帰仙時に録音したのか?ーー、平岡正明による「パンタ、もとにもどれ」(『ニューミュージックマガジン』9月号)も熟読していた。中央大学の学園祭のライブ、11月3日多摩校舎9号室、前半はアコギの弾き語り、後半は幕が開いて(ビクター関係なのだろう、バックバンドとして)T-BIRDが登場、もはや曲目は覚えていないが、前半はソロ、後半は『KISS』からの曲が中心だったか。「恋のクレセントムーン」と「真夜中のパーキングロッド」が後半の口開けだったような。ZKの曲はまだ封印されていたように思うが、或る記録を見るとそうでもないようだ。



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