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ZK20191125

2019年の11月25日の頭脳警察のライヴ、これまでの数知れない経験の中でも、指折りのものだった。京大西部講堂ライラ・ハリド来日時のそれに続くか。FZというかThe Mothers of Inventionの例の曲——大体、この曲がかかって始まるときは気合いが入っている証拠なのだ——をバックに二人が登場、革命三部作。「世界革命戦争宣言」をライブで聞くのは三度目か。この曲というかラップもしくはアジテーションについては後で触れるが、十年以上前、初台ドアーズのライブで「これが頭脳警察」だというパンタのMCと共に聞いたときは、客の数が少ない——100人もいなかったと思う——こともあって、複雑な気持ちになったものだが、戸川純ファン——一目で大体わかるのだ——も交えたそれなりの数の観客の前でのパフォーマンスは、今なおこの曲が生きていることを感じさせる。若いミュージシャンが加わっての「銃をとれ!」と「赤軍兵士の詩」は、リズム隊がしっかりしているせいか素晴らしい。続いて、4月の花園神社の水族館劇場でのライブを引き継ぐ形で劇団員も交えての新譜からの数曲。アングラ演劇と頭脳警察の相性の良さをよく示す刺激的な時間だった。これまでのライブでは演奏されなかった(?)、メロトロン風の音から始まる、というよりか、 "Strawberry Fields Forever" へのオマージュのような冒頭から始まる「揺れる大地 2」などとてもよかった。若手大活躍のロックンロールメドレー、そして、締めは「世界夫人」。何度聴いた曲かわからないが、こうやって聴くと感慨深い。その後のアンコール、まさかの戸川純登場で、彼女の一曲目だった「蛹化の女」を頭脳警察パンクヴァージョンで、そして最後は「コミック雑誌」。アンコール含めて10数曲、1時半弱のライブだっただろうか、MCも少なく、緊張感溢れるあっという間の時間だった。
長い間ライブに通っているし、まあ、もうパンタが何をやろうとやるまいと全面支持・異議なしという気持ちになっているから、今日もまたこんな感じかと思うことも多いのだが、そして、前回の渋谷の第二弾などは、ファン投票ベストテン形式で、リラックスした雰囲気といえば聞こえはいいが、そこまでファンサービスしなくてもいいのに——パンタもトシもとても優しいのだ、アンコール終了直後、足許の覚束ない戸川純のことを察して、帰りかけたパンタは戻ってきてトシと共に彼女を導いていった——と思うことなどもあったが、50年記念の終盤でしかも「革命三部作」解禁となると気合いが違う。以前あるところで、パンタとトシが二人すっくと立ち並んでギターとコンガをかき鳴らすだけで怪しい雰囲気が漂い「頭脳警察」になる——その勇姿は昭和天皇が亡くなったときの同志社大学で開かれた非国民集会でのライブとしてYoutubeで見ることが出来る——と記したことがあるが、昨日は二人とも着席の姿だったから、もうあの勇姿は見られないかと一瞬残念に思ったものの、そんなことはない、冒頭に映写された三里塚でのライブシーンの着席姿を反復しているに過ぎないかのようだった。
しかし、今の時代において「世界革命戦争宣言」を歌う・叫ぶとはどういうことか。革命という言葉が真面目に語られなくなったこの時代のこの国において、革命やましてや「世界革命戦争宣言」なる暴力革命を語ることにどんな意味があるのか。かつて、新宿のロフトプラスワンで、下獄直後の塩見孝也とパンタのトークライブを見に行ったことがあり、1stの「宣言」を流してこの赤軍派元議長が聴くという稀有な場に立ち会ったことがあるけれども——パンタがとても神妙にしていたのがとても印象的で、この世代の方々にとっての「日本のレーニン」の存在の重さに驚いたものだ——、内ゲバのことは措くとしても、「前段階武装蜂起論」が今から考えれば、その志はよしとするにしても現実にはおよそマンガでしかないことも事実だろう——「俺のまわりは漫画だから」という一節はそこまで示しているのだ—–。しかしながら、戦術上の茶番は別にして、この宣言の価値がなくなったわけではない。抜粋する。「我々は君達を世界中で革命戦争の場に叩き込んで一掃するために、ここに公然と宣戦を布告するものである。/ブルジョアジー諸君!/[…]/君達の歴史的罪状は、もうわかりすぎているのだ。君達の歴史は血塗られた歴史である。第一次大戦、第二次大戦、君達同士の間での世界的強盗戦争のために、我々の仲間をだまして動員し、互いに殺し合わせ、あげくの果ては、がっぽりともうけているのだ。/[…]/君達に、沖縄の同志を銃剣で突き刺す権利があるのなら、我々にも君達を銃剣で突き刺す権利がある。 君達は植民地を略奪するために我々の仲間を殺した。仲間をそそのかし、植民地を略奪したらそのわけまえをやると言って、後進国の仲間を、君達がそそのかした仲間をつかって殺させたのだ。それだけではない。そうやって略奪した植民地を君達同士で奪い合う強盗戦争にも、同じように仲間をそそのかし殺し合わせたのだ。/[…]/いつまでも君達の思い通りになると思っていたら大まちがいだ。我々は過去、封建領主のもとでは家畜のように領土のおりの中に縛りつけられた農奴だった。君達は、この身分の枠を破り、我々を君達の自由にするために、「自由、平等、博愛」のスローガンの下、領主たちと闘った。だが今や、我々は君達の好き勝手にされることを公然ときっぱりと拒否することを宣言する。君達の時代は終りなのだ。我々は地球上から階級戦争をなくすための最後の戦争のために、即ち世界革命戦争の勝利のために、君達をこの世から抹殺するために、最後まで闘い抜く。/[…]/我々は、自衛隊、機動隊、米軍諸君に、公然と銃をむける。君達は殺されるのがいやなら、その銃を後ろに向けたまえ! 君達をそそのかし、後ろであやつっているブルジョアジーに向けて。/[…]/我々、世界プロレタリアートの解放の事業を邪魔するやつは、だれでも、 ようしゃなく革命戦争の真ただ中で抹殺するだろう。」思わず長くなってしまった。色々と記さねばならないこと—–「国家装置」に対する「戦争機械」と記せばお里が知れるか——はあるが、これのどこが間違っているだろう。これらの言葉が、昨晩の渋谷においてどのような意味をもっていたかを判断することは難しいけれども、これらの言葉、やや幼く稚拙な表現も混じっているけれども、10代のパンタの心を震わせた言葉の強度は増幅されて50年の時を経て渋谷に響いたのだ。

長くなったついでに追記
「世界夫人」、インタビューなどによると、パンタはヘルマン・ヘッセのこの詩について、第二次世界大戦の廃墟においても大地にしがみついても生きる気持ちがそこに込められていると解釈しているようだが、私は、むしろ世界への信を失い幻想をもつことなく生きていくことを述べている詩だとずっと考えてきた。大学入学時のオリエンテーションの合宿の際に一人一芸をしなければならないとき、この歌を弾き語りしたのもそんな気持ちからだった。昨日聴きながら、どうもパンタの解釈、それは晩年のドゥルーズの議論と共鳴するが、に分がありそうな気もしてきた。
それと、戸川純。そのお姿には最初びっくりし、一曲目が「蛹化の女」だから、途中で蛹から脱皮するのかとも思っていたが、そんなこともなく、そのありようそのものがパンクとしか言いようがないことがわかり、心が締め付けられた。歌だけ聞くと、一人カラオケで寂しく歌われたもののようにも聞こえる「愛の賛歌」の与える情動の力。最近、耳を離れない「鬼退治」が蘇り、「つらい」路をこの方も中古の車で歩んでいるのだ、と。

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