謡ふ酒屋樗堂一茶/烟しての巻
日常平語
29
むつむつ腹は立しまうたり
窓のかた鼻の先迄日のさして 一茶
名オ十一句、光の彫刻が野太い男の顔を刻む。
〇
窓の まど・の
かた 方、窓際に
鼻の はな・の
先迄 さきまで
日の ひ・の
さして 差して (むつかしいいことばは何ひとつありません)
〇
むつむつ はらはたちしまうたり
まどのかた はなのさきまで ひのさして
気分のようなものには一切ふれず、付け句は、ただ陽に照らされた男の鼻先を大写しにして見せていたのです。このように、歌仙という文藝は、ひたすらシーンの連続でしかないのですが、人は、その切れ目切れ目に滑稽を見出していたのです。
〇
俳諧に
硯法度とこひやせかるゝ 晋士
夜の雨窓のかたにてなぐさまん 芭蕉
三寸の殘をしたむ唇 桃隣
「打ちよりて」の巻『句兄弟』(初ウ8.9.10句)
〇
近代の句に
胃ぶくろ乾してゐる鼻先の梅の花 耒井
虹が出るあゝ鼻先に軍艦 不死男
16.12.2023.Masafumi.
余外ながら、浅草噺を
〇 山田太一/寺山修司
山田太一さんの生家は浅草だった。
戦時中の立ち退きで伊豆の方に越していたのだそうです。
寺山修司を知ったのは早稲田の学生のころのことでした。
昭和30年1月1日
寺山修司より
山田太一
羊のとし幸福あれ
昭和31年月日
この葉書は北見からもらったもの。
とにかく、よく歩いた。夜になって、北見に会うと、北見が口惜しがる。帰りは金がなくなって急行にのれなくなったので、十四時間(大阪から)だ。これではつらいので、湯河原で降りて、一泊してくる予定。(京都にて 山田)
山田太一編『寺山修司からの手紙』岩波書店(2015)
山田太一『月日の残像』新潮社(2013)の巻頭は「武蔵溝ノ口の家」でした。
いま住んでいるのは、溝の口のはずれである。JRの溝の口の駅名は「武蔵溝ノ口」である。武蔵野なのである。国木田独歩の碑がある。「忘れえぬ人々」という短編の舞台であった。
「多摩川の二子の渡をわたって少しばかり行くと溝口という宿場がある。その中程に亀屋という旅人宿がある。恰度三月の初めの頃であった、この日は大風かき曇り北風強く吹いて、さなきだに淋しいこの町が一段と物淋しい陰鬱な寒むそうな光景を呈していた。」と、短編を引用していました。
かく云う私は、東京遊学中のころ「多摩川の二子の」近くにある瀬田の下宿屋で暮らしていました。(下宿屋のオヤジが石原沙人こと青竜刀、読売新聞のバイクが「時事川柳」の原稿を取りに来ていたころのことでした)
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