謡ふ酒屋樗堂一茶/烟しての巻
日常平語
06
べんべんと雛直ぎりし宵の内
ほろつき出たり雨の春風 一茶
初オ六句、「春雨じゃぁ濡れて行こう」はむかしの映画の台詞。
〇
ほろつき そのまんま、伊予の方言。「どこ、ほろついてたんだい、この○○!!」と。
出たり でたり、句に切れを持たせて、、、
雨の あめ・の、ここは定番、表六句の〆。
春風 はるかぜ、吹き抜けていく、と。
〇
べんべんと ひひな ねぎりしよひのうち
ほろつきでたり/ あめのはるかぜ
「べんべん」とくりゃぁ、「おいら、ちょいと、出てくらぁ」と、ぷいと飛び出て五、六年。うふふ、そんなもんでさぁね。
〇
と、一茶のことは兜太さんに
以下、引用です。
一茶(いっさ)[1763―1827]
江戸時代の文化・文政期(1804~30)に活躍した俳諧師。本名は小林弥太郎。北信濃の柏原(北国街道の宿場町。長野県信濃町)に生まれる。15歳(数え年)で江戸に出たが、晩年は生地に帰住した。父の弥五兵衛は伝馬屋敷一軒前の中の上の本百姓。3歳で母くにを失い、継母さつがきて、義弟専六(のちに弥兵衛)が生まれたことが、離郷の原因とみられている。29歳で葛飾派(江戸俳諧の一派で田舎風が特色)の執筆 になるが、それまでの事情はほとんど不明。この年帰郷しのちに『寛政三年紀行』にまとめるが、それ以後のことは一茶自身の日録風の句文集(『七番日記』など)などにより承知できる。一茶はメモ魔のごとく記録をとっている。
寛政4年から6年間(1792~98)、亡師竹阿の知人門弟を頼りに、京坂、四国・中国の内海側、九州北半分(長崎まで)を遍歴し、五梅 (観音寺)、樗堂 (松山)、升六 、大江丸 (大坂)、闌更(京都)などの有力俳諧師に接し、読書見聞の記録を残す。西国修業の旅だった。しかし、江戸に帰っても宗匠にはなれない。そのため、葛飾派関係の人の多い、下総 (千葉県北部と茨城県の一部)、上総 (千葉県中央部)を歩き回って、巡回俳諧師として暮らすしかなかった(「わが星は上総の空をうろつくか」)。39歳のとき父死去(のちに『父の終焉日記』を書く。「父ありて明ぼの見たし青田原」)。そして、「椋鳥」(冬季出稼ぎ人の綽名 )とからかわれ、支持者夏目成美(札差で著名俳人)との心の通いもしっくりしない江戸暮らしに、ますます孤独を覚え(「江戸じまぬきのふしたはし更衣」)、やがて、頑健な体にも衰えを感じ始めて、巡回旅の不安定が身にしみてくる(「秋の風乞食は我を見くらぶる」)。かくして、柏原帰住を決意した一茶は、江戸と柏原の間を6回も往復して、ついに継母義弟に、父の遺言どおりの財産折半を実行させる。また帰住前後を通じて、長沼(現長野市)の春甫、魚淵 、紫 (現高山村)の春耕、中野(現中野市)の梅堂 、湯田中 (現山ノ内町)の希杖をはじめ、柏原周辺から千曲 川両岸にわたる地域の力ある門弟を多数得る。50歳で帰住(「是がまあつひの栖か雪五尺」)。52歳で結婚(初婚)。門弟のところを回り歩き、ときには江戸に出て、親友の一瓢、松井、さては利根川畔の鶴老の寺に泊まったりしているが、3男1女の全部を失い、妻きくまで失う。後妻ゆきとも3か月で離婚。やをを妻に迎えたのもつかのま、その翌年は大火にあって、土蔵暮らしとなり、文政10年11月19日、三度目の中風で死ぬ。娘やたは次の年に生まれた。それでも、最初の中風回復のあとは、「今年から丸まうけぞよ娑婆遊び」とか、「荒凡夫」などと書いたりして、自由勝手な生きざまに徹し、「花の影寝まじ未来が恐ろしき」とつくって、いつまでも生きたいと願っていたのである。柏原に一茶旧宅(国指定史跡)がある。
金子兜太「日本大百科全書」©Heibonsha Inc.
烟しての巻 初オ一句~六句
冬 煙してのどけき冬よ山の家 樗堂
月 冬 木の葉はらはら昼比の月 一茶
雑 さゝ濁り魚とる水に竹さして ゝ
雑 人見て人の立かゝる也 堂
春 べんべんと雛直ぎりし宵の内 ゝ
春 ほろつき出たり雨の春風 茶
23.11.2023.Masafumi.
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