見出し画像

仕切り直し樗堂一茶両吟/藪越やの巻

     十五

 燐乱るゝ諏訪の涼風        一茶
昼の夢よべのうつゝを結ぶ也     樗堂

初ウ九句、秀歌をかりて豫洲二丈庵主が詠んだ渾身の境涯句。

     〇

昼の夢 「夢は夜開く」の倒置。

よべの 「よべ」「よんべ」は伊予のことばです。

うつゝ 現をあて、うつゝと。

結ぶ也 夢とうつゝを結ぶ、也は願望をこめての強調句。

     〇

 をにび
  みだるゝ  すわの
         すずかぜ

ひるのゆめ よべのうつゝを むすぶなり
 
樗堂は、文芸の指標とも云うべき秀歌を踏まえながら、「結ぶ也」と強い句を詠み己の立ち位置を示していたのです。

     〇

夢うつゝの歌はたくさん残されていました。

うつつにはさもこそあらめ夢にさへ一目をよくと見るがわびしさ  小町
夢とこそいふべかりけれ世の中にうつつあるものと思ひけるかな  貫之
世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ   よみ人知らず

さらに、後の代のことながら、

いにしへを思へば夢かうつつかも夜は時雨の雨を聴きつつ     良寛

また、川柳、狂歌では

親之敵現歟夢也(おやおかたきうつつかゆめか)  新版柳樽

「和書蒐集夢現幻譚」(わしょあつめゆめうつつまぼろしものがたり)天明狂歌絵本『古今狂歌袋』(中)

など、枚挙にいとまがありません。

     〇

とは云え、樗堂はどうしてこの句を詠んだのでしょうか。

句意からすれば、風狂三昧の暮らしを想像されても仕方がないのですが、実は、樗堂の日常は全く真逆の生活だったことが知られているのです。

当時、樗堂は酒屋を商う商家の当主でした。その人望を買われ、藩から町年寄りの要職を充てられていました。世にいう伊予八藩、松山藩とて藩の財政は決して豊かでなく、藩札なり悪銭を市中に撒き、それで商いを商人にさせ、良貨のみを上納させるのが藩のやり方だったのです。日夜惜しまず働いても、なかなかその実が上がらない割の合わない仕事だったのです。それでも、樗堂が町年寄りを務めている間は財政の穴を開けることはなかったということでした。

さらに云えば、樗堂は 妻とら女の入婿でした。とら女には死去した前夫との間に子があり、その子が店のあとを継ぐまでの<仮の当主>が後夫の勤めだったのです。「米ぬか三升あれば聟に行くな」とは誰が云った諺だったのでしょうか? そんな風潮のなかで、樗堂は商家の<婿務め>をそつなくこなしていたと云うのです。

よくは分からないのですが、そんな暮らしのなかで、樗堂は「夜の夢」でなく「昼の夢」、「昼の現」でなく「よべのうつゝ」に置き代えざるを得ない何かがあったからだと思っているのです。

あたかも、日常の狂気を<歌仙という文藝>のなかに昇華させようとしていたかの如くに、、、、、。

     〇

江戸川乱歩が「晝はゆめ 夜ぞうつゝ」と色紙に書き残していたとのことですが、ここに云う樗堂一茶両吟藪越やの巻は十八世紀末のことだったのです。

1.9.2023.Masafumi.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?