舞台「最高の家出」についてのいろいろ

公式以外何の前情報もなく初見一度きり、パンフの三浦さんのところだけを少し読んで推察できたことと感想を書く(現時点で他の方の考察は見ていない。とんだ勘違いをしている箇所も多々あると思うので、後でこっそり教えていただければありがたい)。

物語としては、主人公箒が(おそらく)夫から逃げるという形の家出をしたが途中騙されて失敗し、行く宛てのない旅路を続けるために通りすがりの港という男からその仕事を貰い受け、とある劇場へ行く。

その劇場ではただ一人の観客、珠子のために、いつも同じ演目を繰り返し上演し続けている。
珠子の娘、アハハが演ずるのが珠子であり、箒はその夫静男役となる。役が先か後かはわからないがアハハは港と結婚したいと思っているので、突如「静男」として現れた箒とは反りが合わない。しかし何日もその劇を繰り返すうちに箒は模造街の住人として溶け込んでいき、アハハとも打ち解ける。
しかし箒は、やがてこの模造街の人々は劇場から外に出ることはできないという、不可解で理不尽な問題を抱えていることを知る。
ドアはあるし、外に出た港と出会い、自分も外からそのドアを叩いて入ってきた。
出られないはずはない、ここは何かおかしい。そしてそのおかしさにアハハと夏太郎以外は気付いてる(事実、外にも出ている)し、外に出ようともしている。
やがて箒を追いかけてきた夫・淡路、役者として通用しないことに折れて戻ってきた港、模造街からの脱走を図り監禁されている二人と全員で模造街から脱出して、模造街が模倣した元の商店街のあった土地へ向かうと、そこにはもう何もなくただ海があるだけだった、というのが大まかな粗筋である。

映画や演劇には付き物だが、なぜ、どうして、という部分は演者の動き、言葉、セット、音響、小道具、そういう視覚聴覚の情報を整理して観客が自分で考えなくてはいけない。

実はこれもmeta的と言うかよくある手法なのだが、観客が劇場に入った時点でその舞台の世界に取り込まれているという仕掛けがこの劇にもある。客席からの役者の入り出、そしてその舞台を観ているという「珠子」の存在を客席に置くことで、観客は全員その模造街の中に入ってしまっているのだ。

さらにあからさまに、開演前、鳥の鳴き声が聞こえていた。そこから冒頭の森の場面にシームレスにつながる。そして雨、蜂の羽音、ザ・自然とも言える景色の中で登場人物が動いていく。ここは劇場の中ではあるが、模造街ではなく、物語の中での「外」=現実世界なのである。観客は劇場に入った段階で物語の中にい、箒のいる場所に合わせて、さらに物語の中の「外の世界」と模造街のある劇場の「中の世界」を、その場にいながら出入りしている。
だからこそ、この冒頭とラストのシーンはめいいっぱい自然が詰め込まれていて、箱庭である「模造街」との対比を色濃くしているのである。
日はのぼり沈み、雨は降る、鳥は鳴き蜂は飛びヒトデは砂浜に打ち上げられている。
そしてかつてあったものがなくなっていたり、新しくその土地に入ってくる人がいる。つまり時間が動いている。
途中、妊娠=模造街の外へ出た、と断定されるのはあの場の時間が止まっていて、かつ箱庭の中の「役」は自然の営みをしないからだ。

そして、そのように場としての現実と模造の対比が(演者と観客と二重に)あり、次に人に関してもやはり現実と空想の対比がある。記憶の中の人物を演じるということは、想像したものを立体化させたのであって決して現実のものではないし、外界の人間の演じる人々の他にイマジナリーな「人のようなモノ」もそこに顕現している。
単刀直入に言えば、腕が伸びる人など現実にはいない。つまり夏太郎は模造街という箱庭の中にしかおらず、外からやってきて役を演じている人間ではない。これは箒がイマジナリーフレンドと一緒に暮らしていることをヒントに考えれば、夏太郎は、その模造街の舞台を観ているという、言わばその劇場の主である珠子の劇場、もしくは劇場そのものを含んだ「珠子の箱庭」の住人、イマジナリーフレンドだと分かる。

箒のイマジナリーフレンドは目に見えないのに夏太郎が実体化しているのは、箒たちが珠子の創り出した箱庭の中に入り珠子の記憶の中の住人となっているからで、箱庭の住人(としての役を演じている)同士だからだろう。

そしてアハハと箒にとって、港と淡路は自分たちの安寧の場所に「外から踏み込んできた現実世界の他人」という共通点があり、箒は現実世界ではイマジナリーフレンドのように他人と分かり合える訳ではないことを知り、けれどアハハたちとは分かり合えることも知る。アハハも港とは「珠子と静男が結婚してるから」という流れでの結婚しか考えられなかったのが、役を外れた部分で分かり合える、この人と友だちでいたいという珠子の箱庭にはなかった友情を知る。

さらに言えば、外では大根役者の港の演ずる静男より、あまり感情をあらわにせず、ああ、うん、と相槌を打ち、それにアハハがぎゃんぎゃんと怒って喧嘩をする、そんな箒の演ずる静男の方が本当の静男に近く、それは当の珠子からも褒められている。
最後「いつも喧嘩してた」と懐古されるように、それが当たり前のかつての日常だったのだろう。

さて、パンフレットに書かれていた「家出の成功って何?」という演出家自身の問いから、家を大切な人に守られた安寧の場所という場とするのなら、親の保護下からの解放、つまり子供から大人へ成長し、家を出て独り立ちすること、そしてもう一つは出生という母の胎内からこの世に産まれ出てくることが「家出の成功」なのではないだろうかという答に行き着く。
この二つの家出は外に出ていることの継続がポジティブなものとして捉えられる。

アハハは珠子の箱庭、胎内から外へ出ることを選ぶ。これは独り立ちと出生を同時に行ったことになる。抜け穴が暗いトンネルというのも出産を暗示しているようにもとれる。

そしてそれが「中」の話とすれば、模造街が模造していた元の商店街は「外」の話で、途中珠子の独白によって語られることが事実とすれば、旅行に行きたいけれど行く気のない夫に嫌気がさし家出して、帰ろうとした時に何か災害があり(水にちなむ役名が多いことと海の近くでのこと、そして途中静男が何回も水をかけられる演出から、津波だろうか)商店街はその住人ごとそこから消えてしまった。ただいまを言う人もお帰りを言ってくれる人もいない。帰り着いた珠子は戻る場所を失い「家出したまま」になったのである。
同時にその珠子の娘アハハも帰る家を失い、ただいまを言うことも言う相手もなくなっている。

少し話を戻す。先刻「家出の成功とは何か」を帰らないことが喜ばしいこと、としたけれど、もう少しよく考えると家出の成功とは家の大切さを改めて知り再び我が家へ戻ることではないだろうか。

出る家があり帰る家があること、その家とは自分を迎え入れてくれる存在がある場所のことであり、そこでただいまを言うこと、おかえりと言われること、それこそが家出の最高の完了ではないか。そして建造物としての「家」がそこになくなってしまったとしても、家というものが他人との共生の場であり心安らげる場であるのなら、生きている限り帰る家は何度でも作ることはできる。

だからこそ、アハハが生まれた外の街で、商店街こそないけれど、箒に「おかえり」と言ってもらえたことでその場が「家」となり、そこでアハハの家出が完了したのだ。

静男と珠子を演じた二人でおかえりとただいまを言い合えたということは、同時にそこでアハハに仮託していた珠子の長い家出も終わったと思っている。

ただ、と言って模造街とそこで暮らす人々がいなくなった訳でもないだろう。この模造街を劇中声も動きもなくその存在すらもほとんど意識されなかった珠子の見る夢とすれば、夏太郎は珠子が家出を完了してしまったらもうその存在を必要とされない。とすれば彼はそこで、箒たちのいなくなった後も、珠子におかえりと告げる静男や、かつて確かにあった戻る場所を作り続けているのかもしれない。

そしてこの物語は舞台上では終幕となる。けれど劇場の「中」にいる観客はそこから「外」に出て家に帰る。その、朝家を出た自分と少しだけ違う自分として戻った時に、はじめて我々の物語としての最高の家出が終わるのだろう。

さて、劇中「遠野」という地名が出たことで柳田國男の遠野物語の迷い家を連想したのだが、もう一つ遠野で思い浮かぶ作家に宮沢賢治がいる。その作品のうちの一つ銀河鉄道の夜こそこの舞台の下地なのではないか。

よく知られているようにこれはジョバンニの長い家出の物語で、脚本を別役実でアニメ映画化もされてい、そこでは原作にはない、賢治の詩集「春と修羅」が読み上げられ「ここからはじまる」という言葉で終わる。この内容も結びも、この舞台とどこかしら通ずるように思う。
舞台の上のアハハと箒の物語も、そして観客の人生も終わらず、確かにここからまたはじまるからである。

追記として。

演劇を主現場とする若くとも達者な面々に囲まれてなお、高城れにさんの芝居は遜色なかった。テーマを伝えることも、そのテーマと物語を伝える役としての役割を、あれだけきちんと、そして感情豊かに千穐楽まで務め上げたことをただただ尊敬する。

そしてそれに至るまでのその努力の質量は、自分を成長させ、ももクロを続けさせたいというところに根差したものなのだということを感じられて、泣くわ、こんなの。

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