Happy go lucky
第二回ももクロ一座感想という独り言
ずいぶんとMETAの重なる芝居を作ったな、と言うのが初見の印象だった。
プログラムやコメントで玉井さんの話す「今を生きる人にとっても考えさせられる」ということと、明治座150周年とももクロと玉井詩織の15年、この三つを外側の箱とすると、その中にそれぞれの続けていく、夢に向かっていく気持ちの箱があってその中にそれを諦めさせるような事件、コロナ禍・芝居小屋の喪失・合唱での心ない声が入った入れ子構造になってい、それを入れ子ではなく自分を写す鏡によって向こうの世界に広げて作られている。
だからそこに展開されているのはすべての時代、すべての場所、すべての人(のもう一つの人格)なので、明確な時間軸は存在していないパラレルワールドになる。
唯一現在の現実としてあるのは玉野栞里の就活と、面接官に自分の培ってきたものをアピールしきれず否定され続けていること。これをエンタメやももクロの世界に置き換えた時に、コロナ禍で自分たちが信じ積み上げてきたものが社会から不要不急とされた二年前、そこからまだ自分たちにできることはあると満身創痍でも進もうとすることを暗示していて、中でもスキルも向上心も人一倍あるのにやさしさから自分にブレーキをかけがちな玉井さんに、自分と似た栞里を演じさせ、かつ座長としての責務を負わせることによってそのメンタルでの成長を促す企画というのも一面にあるんだろう。
場面の転換で出てくる幾何学模様のセットは破れた鏡で、冒頭そこに映る三人は栞里が困難に陥った時に現れる諦めさせるための理由付けとして自分で作り出したもの、つまり鏡に写った自分であり、さらにかなやっこがもう一人の自分だとはっきり言葉にしている。
だから気持ちの定まらないまま補欠で合格になりそうだった企業からの電話をかなやっこがこちら側という現在の現実にまでやってきて切った=自分の中で「それは違う」と思っていたから自分で切ったということになる。
おれんとさあやについても考えると、裁縫の腕を磨いてきて素晴らしい衣装を作るさあやと、料理でみんなを喜ばせたいおれんはそのまま歌を頑張り続けた栞里のもう一つの姿でもあって、しかも「もう無理かもしれん」としょげる状況下で「運がいいから!」と激烈なポジティブとその雰囲気に乗っちう調子の良さで宝くじに走り明るく逆境を乗り越えようとすることを「Happy go lucky」に繋げている。
実際クジを当てるラストでHappy go lucky、つまり笑う門には福来る、となる。
これらを踏まえると最後がどうなったのか、というのは、この舞台で玉井詩織がどう考えどう答えを出しどう変わったのか、ではないだろうか。
ものすごくストーリーに忠実に考えれば「自分の培ってきたことに自信を持ちやりたい仕事のできる会社へ入社するために頑張る」もしくは「もっと得意なことを糧に他にやりたいことを見つけその道へ邁進する」ということが大江戸座の多様な人たちの描き方から想像できる。
この舞台の構想がまずコロナ禍前だったことで変えざるを得なかったとは言え、その前年のももクリで夏菜子ちゃんが新国立に立つことをももクロの夢として話したこと、コロナ禍でエンタメ界の活動が止まってしまったこと、それらを観客も制作も演者も実際に経験してきた夢を諦めさせるような状況への全員での抗いと希望はちゃんと描かれている。
モノノフへはももクロも玉井詩織もこれからの姿を楽しみにしてくれとなるし、子どもへも大人へも夢という未来への可能性は無限大だよ、と伝えてるし、宝くじは自分のお金で買おうね、という注意もしてくれるし、とてもやさしくて希望の溢れる舞台だったと思う。
昨今ストーリー重視でテーマが分からない作品が多いけれど、これはテーマありきで描かれていて、そこが物語の起承転結やキャラクターの人生を楽しみたい人にはもやっとなる部分かも知れないし、もっと上手く描けたのではとなる創作好きな人もいるかも知れない。
だからこれは個人の感想です。
気付かなかった点も見落としている点もたくさんある。制作にはこれからもっとすごい作品でももクロを輝かせて欲しい、ということも置いておきたいと思います。