玉井詩織ソロライブ「いろいろ」についてのいろいろな雑感

色とは何だろうか。
どうして月ごとに曲を作る企画タイトルを12colorsにし、ソロコンタイトルを「いろいろ」にしたのだろうか。

メンバーカラーをガチガチに固めて名前よりも色名で記憶させる売り方をしているアイドルだから、という理由はある。けれど大元のファンサイトのコンテンツのタイトルを見ると、何の捻りも何の装飾もなく「玉井詩織デジタルコンテンツ」なので、最初から「色」をモチーフにしていた訳ではない。

結論を言うと、おそらく明確な理由はなく、なんとなくで決まっていった、が一番正解に近いように思う。ただソロコンへ向けて(おそらく最初に決まっていたはず)曲を作る段階になってその企画タイトルを「いろんな玉井詩織を楽しんで欲しい」という意味から12colorsにし、その延長でソロコンの軸を色にすることが固まったのだと思う。

少し話は逸れるが、そもそもAEサイトのコンテンツの充実が始まりだったとしたら、それはAEを仕切っていた古屋さんの頼みだったのではないだろうか。その予想はソロコン開催直前のマンスリーAEインタビューで玉井さんがその名前を「敢えて」出したこと、ソロコンラスト映像にマネジメントとしてクレジットされていたことの二つでなんとなく合っていたのかなと思っている。
なので、今回のソロコンの開催理由を「せっかく曲を作ってもらったから」と話していたけれど、それ以外にも昔から応援してくれてソロコンを待ってくれているファンはもとより、最初にこの企画の後押しをした古屋さんにもきっと見せたかっただろう。
高城さんの写真集にも助力していたし、メンバーがやりたいと話したことをあの軽い口調で「やりなよー」と応援してくれていただろうことは容易に想像できる。

この企画の始まりはそんなささいなチームでのやり取りだったんだろうなと思う。

さて、企画を通して見ると、第一弾の暁、そして誕生月の泣くな向日葵と本人作詞曲のSepiaの存在が際立っている。

12colorsの最初の曲が、「暁」という色名としては存在するけれど、時間的には「色を作る」光がまだない=まだ色を成していない、未明という時間帯をタイトルにしている。つまりこれから光がさして、世界に色を落とす予感とまだ何ものでもない自分が新しく生まれ変わる意志を歌う。
座右の銘の「未来と自分は変えられる」を彷彿とさせる始まりである。

そして12ヶ月それぞれAEで発表した写真のイメージから曲が作られているなか、そのイメージを玉井詩織が演じるというコンセプトで6月と9月は突出して素顔の玉井詩織に近い。

泣くな向日葵は玉井さんのことをよく知る作者による、本人のメンバーカラーである黄色と向日葵から色と言うより彼女自身を描いた誕生月の楽曲で、ほぼあて書き曲と言っていい。また、Sepiaはそのフォトイメージが着飾らずラフな格好で素に近い(けれどナチュラルに美しい)ものであることと、本人作詞曲であることがその理由である。

8月までの12colorsの楽曲はその企画名どおりそれぞれキービジュアルの色に特化した、彩度の高い=光の強い色のイメージがあるが、自身で作詞したこの9月曲でぐっと彩度が落ちる。彩度、つまり光とそれに呼応する色の喪失を、光の届く時間の減る季節への移行になぞらえ、大切なものの喪失として歌っている。

最初は「喪失」をテーマにしているのかと思ったけれど、最後「まっさらな心のパレットに色をくれる いつかの君と描きたい」から、涙のあとの虹と続く。現在の自分の心と、「いつかの君」=過去の自分と、涙のあと=未来、虹と笑う=明度と彩度のある色彩と読むと、喪失ではなく失ったと思っていたものが記憶に鮮やかにあることとそれを持って未来へ進むことの決意を見ることができる。この曲の最後、主人公は未来へ向かって顔を上げているのだ。

この自分の中の内省から自身で笑うに至る曲と対になっているのがやはり「泣くな向日葵」で、曲中の向日葵は幼い頃泣き虫だった玉井詩織であり、かつ、それを見つめている視線の主である太陽も玉井詩織である。

この曲で泣くな、笑い返して、と自身に伝えるのも、自身の作詞曲で夜明けの光に包まれて、大丈夫、未来は明るいと自身に寄り添っているのも歌い手本人だ。

けれど泣くな向日葵が悔しさやちょっとした辛さへの負けん気からの涙の、笑顔への強い復帰という過去の自分へのエールであるのに対して、Sepiaは色鮮やかな子どもの頃の気持ちが大人になるにつれて変わってしまい色褪せていくこと、そして色というものが欠けることを知った大人の、今の自身を認め寄り添うやわらかいラストになっている。

その違いはあれどどちらも曲終わりに玉井詩織のあのやわらかい笑顔を想起させる。その笑顔こそ彼女の素顔に近いのではないか。

色とは光であり、光によって生み出される存在の確かさだ。そのものの形も色も光をあてることではじめて目に映すことのできるものなのである。
そして目に映る色をその色と認識してはじめて「色」になる。同じものを見ていても人によってその色は変わる。同じ人でも成長という時間経過や意識の変化でまた見え方が変わり、色も変わる。

12colorsは玉井詩織その人が、時の流れによって様々な色に変わることを見せ、ソロコンでは、グループの黄色に留まることなく変化していくことができる、つまり何度も自分の指針として話している「未来と自分は変えられる」という言葉を鮮やかにステージに体現してみせた。
そのタイトルが「いろいろ」になるのも自明の理で、いろいろな「色」いろいろな「自分」いろいろな「思い出」いろいろな「可能性」いろいろな「未来」、つながる単語に見えるのは希望なのである。

冒頭の余談に立ち戻る。

ももクロ結成から足掛け16年経ち、あの国立競技場大会からも10年が過ぎた。古屋さんも、あの時会場を埋め尽くした光の中にももう今はそこにいない、見ることのできない人たちがいる。
だからこそ、12colorsでは未来だけではなく一瞬一瞬過去になる時間も色鮮やかにそこにあり、それは決して色褪せ、Sepiaの景色になっている訳ではないことを描いているように思う。

現実世界でその色、つまり存在の喪失があったとしても記憶の中で色鮮やかに浮かび上がるのならそれは確かに存在し、そこに光は満ちているのだ。

そして、ソロコンのなかでモノクロデッサンを歌ったことは、「どの色がかけてもこの夢の続き」を「描けない」という諦めから、「今はないけれど確かにそこにその色はあって、今が描けている」ということを二重に教えてくれているのだと思う。ライブ中ステージ転換で使われたイメージ映像が「描く」ことだったのもそこに繋がっているのだろう。

が、後々そんなことを感じさせながらも、実を言えばライブの間中、ひたすら「楽しい」しかなかった。その楽しさという彩りこそ、いろいろで描き上がったあの世界なのかも知れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?