ハゴロモの森 16
「じゃあ結局もうすぐ三十じゃないか」
「日尾さん。もう寝ませんか。明日も仕事ですよ。着替えしに家に戻らないといけないでしょう。早起きして送って行きますから」
と半分寝そうな声でリンは言った。九時過ぎだ。いくらなんでもそんなに早く寝られない。小学生じゃないんだから。でも、何を言っても無駄だ。
「分かったよ」
僕は部屋の明かりを消した。カーテンを開けたままなので、街明かりがどばっと入ってきた。暗闇にはならない。充分ものの位置が分かる。
リンが寝ている間に家に帰ってしまったら、こいつはどんな気持ちになるだろう。いやそれは、いくらなんでもリンをバカにし過ぎだ。僕は今夜、次にリンが目を覚ますまで一緒に布団に入っていなくてはならない。そう覚悟する。
しかし、薄明りの中で僕が布団に入っていくとリンはしっかりと目を覚ましていた。そして僕のことを待っていた。それがはっきりと分かった。暗い、水っぽい目が期待で満たされている。
「教えて」
とリンは言った。
「何を」
「私が、死んだときの話。日尾さんにしか分からない」
日尾さんにしか分からない。リンは瞼を下した。何だこれは。まるで寝る前のお話だ。
「天女の羽衣だよ」
僕は話し始めた。
「天女の羽衣は処女膜の隠喩なんだ。天女が水浴びのあと天に戻れなくなったのは、羽衣を盗まれたからじゃなくて、村の男に犯されて処女膜を失ったからなんだ」
リンは黙って聴いている。じっと。目を閉じて。でも眠っていないのは空気から伝わってくる。
「女性はね、処女の時は神聖な存在で、だからこそ不思議なことが出来たんだ。空を飛んだり、未来を予言したり。男性に犯される事は、その神聖性を失うっていう事なんだ。だから処女膜を失うと、女性は神聖な存在としての死を迎える。ただの薄汚い女になってしまう。そういうことなんだよ」
「なんですかそれは」
リンは目を開けた。薄明りの中で、時々入ってくる車のヘッドライトにその目が青く光るようだ。
「君が中学の時、僕に話したんだよ。そんな風にね。処女膜を失ったら、女は死んでしまうんだってね。違う。天女は死んでしまうんだっていう意味だったのかな。君は自分が天女かなんかだと思っていたのか」
「…つまり。私が一度死んだ話ってなんなんです」
「教えてやらないよ」
「本当に最低な人ですね」
でも、リンの声に侮蔑は含まれていなかった。
「あなたの目的はなんですか」
「君が自分で思い出してくれよ」
僕はリンの光る眼に呑みこまれてしまいたかった。いや、呑みこまれていた。そうじゃなかったらこんなに心もとない気持ちにならなかっただろう。
その夜僕は不安で、心もとなくて、為す術が無くて、そして幸福でリンをずっと見ていた。同じ心でリンが僕のことを見ているんだったらどんなにいいだろうかと思って、ずっとリンの事を見ていた。深夜三時がいつ過ぎたのか、気が付かないほどに。
案の定、右京さんにまたしても散々バカにされた。君はどこまえで馬鹿なんだと。そして、君をそこまで馬鹿にさせる女の人に是非会ってみたい、いや、なんとしても会ってみたい。日尾君。普段のビールを倍あげるから、なんとしてもその人に会わせてくれないかな。
散々笑い飛ばした後で、右京さんは真剣にそう言った。僕は、右京さんまでなんだか必死になってくるのが怖かった。リンが絡むと、人はみんな少しずつおかしくなるのかもしれない。リンにはそういう、陰の求心力がある。
「僕の友達なんだ。君に会ってみたいって言っているんだけど、車椅子の人でね。合流が難しいと思うかもしれないけど、あっちは何でも出来る人だから。心配しなくても大丈夫だ。だから、会ってみてくれないかな」
僕はある日の昼休憩に、地下書庫にリンを呼び出してそうお願いをした。リンは推理小説家の本に背中を預けて、長い髪をさらさらさせながら、首をかしげていた。こんな風にしていると、この女は本当に美しいのだ。そう思う僕は悔しくなる。
「昼寝してもいいんならいいですよ」
と言われて、
「いや、さすがにそれは困る」
頼むから、と僕は断った。
「言ったように右京さんは車椅子だから。なんでもできるとは言ったんだけど、君のアパートにはエレベーターも無い。右京さんが君の部屋まで行くのは。ちょっと僕の力だけでは無理だ」
右京さんは僕より二十キロは体重が重い。そんな右京さんを担いで階段を上がる。ちょっと勘弁してほしい。右京さんだって辛いだろう。
「なんで右京さんが私の部屋に来るんです」
ふん、とリンは高慢に鼻を鳴らした。どうやら今日はこんな感じの人格が表に出ているらしい。傲慢で、驕慢で、美しくて。女主人みたいな。昔みたいな。そして首を反対側に傾げた。さらさらと髪の毛が鳴った。
「だって君昼寝がしたいんだろ? じゃあ君の部屋に行かないと」
「私が右京さんの部屋に行ったらいいんじゃないですか」
「なんだって」
翻弄されている。それは自覚している。自覚しながら、やっている。僕はリンに復讐してやりたいと思っていた、しかし、実際復讐しているのは誰だ?
僕は腹が立った。リンに仕返しなどさせてはならない。仕返しをしたいのは僕だ、お前じゃない。
僕が恨むようなことがあっても、リンが僕を恨むはずがない。僕の人生をめちゃくちゃにしたのがこの女で、恨んでも恨んでも腹の足しにもならない。それは僕だ。僕のほうなのだ。
しかし僕はリンに翻弄されていた。そして喜んで翻弄されていた。リンにくるくる回されているような自分を楽しんでいた。幸福さえ感じたのだ。確かに僕は大バカだ。だから右京さんに何を言われたって平気だ。大バカだって、自分でキチンと分かっているのだから。むしろそう言われて安心する。自分を適正評価してくれる人がいる。
「だって君、自分の家以外のところで寝るのなんか、きっと嫌だろう」
少なくとも僕はそう思っている。
「私が行くって言ってるの。それに何の文句があるんです。右京さん私会いたいんでしょう? そして私が会ってもいいですよって言ってるんですよ。だからお願いくらい一つ聴いてくれたっていいじゃないですか。
私は右京さんのうちで昼寝をします。そしてそれ以外の条件では右京さんには会いません」
この女は。昼寝ばかりしたがるな。眠っている間に記憶が溶けて僕のことを忘れてしまったんじゃないだろうか。僕はやはり、腹が立った。
更にいうとそれに粛粛として従おうとしている自分にも腹が立った。でも僕は言うことを聞いてしまうのだ。どんなに悔しくても。それが僕の望みになってしまうのだ。
リンの言うことを叶えてやりたい。あの時は出来なかったから。
「日尾君、君の彼女は馬鹿なのかい」
右京さんは困惑していた。でも、そこには嫌悪の色は含まれてはいなかった。右京さんは立派だから、そこに嫌悪がなければ、嫌悪はないのだ。僕と右京さんは、右京さんの部屋の中で、真ん中に眠ってしまったリンを挟んで、向かい合ってビールを飲んでいた。
次の土曜にリンが僕たちの公営住宅にやってきて、僕はリンを伴って右京さんの部屋に行くと彼女です、と言って紹介した。
「右京さん、これが、話していた僕の彼女です」
「日尾君、美人だね」
女性に興味が無いのではなく、興味を持つことの哀しさを嫌と言うほど知っている右京さんにしては驚くような初対面の感想だった。
右京さんは玄関までいざって出てきて、僕たちを迎えてくれたのだけど、夏掛けと枕を持って立っているリンを見上げて、当初ぽかんとしたようだった。呆気に取られたと言うか。
「初めまして。長嶋リンです。さっそくなんですが上がってもよろしいですか」
言いながらもう靴を脱ごうとしている。僕はあわてて止めた。
「ちょっと待って。右京さんが先に動かないと」
僕が言うと、
「ごめんごめん、玄関を塞いでしまっているね」
と言うと、どうぞ、上がってください。と言いながら再びいざって奥の和室の方に入って行こうとしていた。
公営住宅はワンDKで、六畳のキッチンの奥に六畳の和室がある。僕たちは高速で床の上を進んでいく右京さんについて部屋の中に上がった。
「じゃあ、さっそくなんですけど、おやすみなさい」
右京さんが定位置の布団の上に戻って、
「まあ楽にしてください、」
と言う前に、リンは右京さんの布団の隣に夏掛けを敷くとその上に寝転んだ。そして枕抱くと、そのまますぐ寝息を立てはじめた。右京さんはやはりぽかんとしていた。そしてこの女は馬鹿なのかと僕に尋ねた。
「日尾君、ビール飲もうか」
「いいっすね」
僕は眠ってしまったリンを踏まないように足を注意して足を運びながら、和室を横切って、冷蔵庫からロング缶のビールを二本出してきた。
「何に乾杯しますか」
「今回は乾杯も何もないよ」
右京さんはかまわずビールのプルタブを開けて飲み始めている。
「乾杯しましょう。だって今日は記念日なんですよ。僕は誰かに自分の彼女を紹介するなんて初めてなんすから」
「君はその、今まで女性と付き合ったことがあるのかい」
「あれを、付き合ったといってもいいのなら、一人いました、過去に。遊ばれただけなんですけどね」
「実に馬鹿馬鹿しい話だ」
右京さんはぐぐぐ、と喉を鳴らしてビールを飲んでいる。
「しかしきれいな人だなあ」
とまたしても意外な感想を言うのだ。眠っているリンの横顔を覗き込みながら。
「正直、日尾君なんかの彼女にはもったいない。こんな、将来性の無いその日暮しの情けない男には。いや、本当にもったいない。僕にもっとまともな知り合いが一人でもいたらきっとその人の方を融通するよ」
いつも通りあんまりなことを言う人だ。僕は笑って、ビールのタブを開けた。
「ほらまたそうやって自分がバカにされている時に笑っていられるね。君はどこまで情けない男なんだい。そして、君みたいなくだらない男がどうやってこんなきれいな人をものにしたんだい」
僕は誇らしくなった。今までで一番の笑顔が出来たと思う。
「きれいでしょう。自慢したいですよ。僕の初恋の人ですから。」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?