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雨の国、王妃の不倫 9

 直井くんは真っ青な顔をして私の家にやって来た。無理もない。このどしゃ降りのなか公園の遊具の下でビニールシートにくるまって夜を耐えていたのだから。私んとこに来れば良かったのに。
 わるいっすから、なんて言って彼は三日もその夜に耐えたのだ。
「ともかくも、お風呂つかって。」
 私はなかば命令した。うっす、と言って直井くんは雨ですっかり色褪せてしまったみたいな体を抱えてふらふらと風呂場に向かう。私は何かすぐ食べられる物を作ろうと思った。
 アスパラと、ベーコンを炒めてマーガリンを延ばしたトーストに乗せてチーズも乗せて、もう一枚パンを被せてフライパンで両面を焼いた。ホットサンド。
 コーヒーを入れてポットを暖かくして待っていたら、お湯を吸い込んだんじゃないかってくらいほかほかになってすこしふっくらした様にさえ見える、直井くんが出てきた。
「ごめんね、米がたべたかったでしょうけども、取り急ぎお腹空いてると思って。」
 私はサンドイッチのお皿をテーブルに着いた彼の前に出し、カップにコーヒーを入れてあげた。なんでもいいっすよ、と彼は疲れた声で言って、
「いただきます。」
 やっぱりお腹空いてたみたいで分厚いパンに勢い良くかぶり付く。
「オムレツくらいだったらまだ作れるけど。」
「いや、いいっすよ。悪いですから。」
 確かに直井くんがうちに来るときはご飯の支度は彼の担当だ。でも直井くんはこのところ具合いが良くなくてなかなかバイトに来られないのだ。
 彼は、未だに彼を病人にした人間たちと戦っている。
「いいの、気にしない。私だって何にも出来ない訳じゃないんだから。きのこの玉子スープと言うてもあるんだけど。」
 私は冷蔵庫の中身を点検しながら聞いた。
「…スープで。」
「おっけ。」
 私はさっきの残りのベーコンを細切りにして小鍋で炒め、きのこと水とコンソメの元を入れていたら、
「死にたいっす。」
 と直井くんが言った。
「無理もないよ。」
「俺の何がわかるんすか。」
 振り向いたら、彼はパンを食べるのを止めてテーブルに顔を立てる伏せ、両拳で額を支えながら小さく震えていた。
「あなたは死にたいくらい誰かを好きになったりするんすか。」
「私は…」
 私はあの人の事を思い返した。そして榮妃のことを、考えた。私は自分が死んでしまっても構わないくらい、あの人の事を考えているだろうか。

“榮妃の書き散らした文の中で、蓮、と言う文字が皇后の神経に触れる元となった、と言うか、皇后はあえてその文言が文の中に入っていたことを喜んだろう。

むかしを想えば池に蓮を臨み、
いま夏、蓮は盛りならん哉、
なんすれぞ蓮を待ち再びまみえんことを、

こんな文句が書き散らされた無駄紙を宮女の一団がみつけて当然皇后に届けたのである。
この蓮とは如何なるものをさしてか。
榮妃は皇后に錐の様な声で糾弾されていた。
不味いことに宮殿内には蓮の咲く池が無いのである。”

 私は、自分を囲む状況がもっと悪くなればいいと思っていた。
「結局帰る場所があるあなたに俺の何がわかるんすか。」
 直井くんは震えていた。震えていて、泣きたいのかな、と私は思った。彼の置かれた状況は過酷すぎる、男の子を好きになる生き方を選び、その信念を徹底的に否定され蹂躙され、無理矢理薬を処方されて。
 精神的な異常と決めつけられてそれが元で本当に心のバランスを崩してしまって。安定した仕事に付くことが難しくなって。私はみたいに簡単なバイトをしてどうにか、食いつないで。
 未だに痛め付けられて細くなった神経とともに歯を食いしばって生きている。
 過酷だ。あんまりにも過酷だ、そして彼が請い焦がれている人もあんまりにも過酷だ。女性と結婚して家庭を持っている。直井くんに行き場はない。打つ手もない。でも、彼は、
「あの人の事ばっかり考えるんすよ。」
 と凍える言葉で私に訴える。
「あなたは、あなたの好きな人のこと其処まで考えたりするんすか。」
「私は、」
 私は答えられなかった。私はあの人を思っている。でも直井くんと同じように打つ手が無いのだった。巨大な魚の群れが狂乱するように激しく雨が降っている。このところずっとこんな日ばかりだ。
「直井くんは、こんな雨の日によく外で過ごしていられたね。偉いえらい。」

 なんて言ってしまう。
「ばかにしてんすか。」
「私は直井くんをばかになんかしない。直井くんこそそんなこと判ってるでしょうに。私をばかにしないで。」
 直井くんは、顔をあげてパンの続きを食べ始めた。小鍋がふつふつと煮え始めている。
「私はね、直井くん。帰る場所が無くなってしまえばいいとおもっているの。」
 私は鍋の面倒を見ながら直井くんにそうはなしたんだけど彼はパンを口一杯に入れていて、何も言わなかった。
「帰る場所がね。無くなってしまったら。私はきっと幸せになれると思うのよ。」
「幸せになりたいすか。今は幸せじゃないっていうんすか。あなたはこんなに恵まれているのに。」
「私はもっと酷い暮しをしたいのよ、そうしたら、幸せになれる気がするの。」
 私はお椀に玉子を二個割って菜ばしで溶く。
「あなた贅沢過ぎる。」
 直井くんが言った。贅沢か。そうなのだろうか。そうなのかもしれない。私は多くのものを手にしている、それを、皆捨ててしまいたいから。

贅沢なのかもしれない。

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