雨の国、王妃の不倫 4

 雨の降る、窓辺に持たれて酒を飲んでいたらそのまま寝てしまった。眠ったら夢の中でも雨が降っていた。
 いや、曖昧な意識の中に雨音が染み込んで湧いただけだったかもしれないけれど。
 とにかくその夢の中で雨が降っていた、私の心には常に雨が降っているのに、この街は常に雨が降っているのに、夢の中にまで雨が降る。私は心も体もぺったりと濡れているような気分になる。
 夢の中で、
“ああ、また気配がする”、と思って私はうれしい半分、迷惑半分で深い息を付いた。気配だけがするのだ。いつも。会える訳じゃない。会いたい訳じゃない。でも雨に打たれる夢を見るときかならずあの人の気配がそこにある。だから、あの人の気配がこんなに私の中に染み込んで居るんだろうな、そう思って私は嫌な気持ちになる。嫌な、哀しい、惨めな気持ちになる、しかし雨に打たれていたいと思ってしまう。
 手のほどこしようがない。まったく手がつけられないな。私は雨に打たれていたい、夢の中、目を閉じて確かにそこにある気配にただ浸っていたい。
 そういう自分を情けない、恥ずかしい物だと思っている。会うでもなく、言葉を交わすでもなく。ただ微睡んでここに居られればいいだなんて。向上心も改善しようと言う気持ちも無いだなんて。
 でも。それでも私はここにいたい、この、雨の国に。乾いた太陽のもとで干からびたくない。いつか腐ってしまうのだとしても、私には水分が必要だ。どんなに馬鹿馬鹿しいと言われようが毎日だって毎晩だって私は泣いていたいのだ。私の雨は、私の涙。

 へんな所で寝るひとだなあ、と起こしてくれた直井くんに、
「こんにゃくの炒めたのしか無いけど、」
 と言ったら、いっすよ、こんにゃく食べますよ、と言うのでコーヒーと一緒に出してあげた。直井くんは不遇の人だ。昨日から私の家に泊まっている。お風呂に入ったりケイタイを充電したりする必要があるからだ。
 私は直井くんが来ると洗濯機を貸してあげて彼が自分のシャツやパンツを洗うのを待っている。そういうことには対抗を感じないのだ、普段彼は公園で暮らしている。定期的に知人の家に泊まって水場と電源を借りるのである。いちおう私と直井くんは二人暮らしと言うことになっている。
 彼がバイトを始めるときに私が住所を貸してあげたから。その報酬として、彼は私の家に泊まるとき、台どころの床にモップを掛けてシンクを磨き、コンロの油避けを新しくして、風呂に殺菌剤をまき、ようするにコマネズミのように働いてもらっている。そして寝るのは同じ部屋だ。直井くんは不遇の人だと私は思う。
「これってなかなかえぐい話しっすね。」
 コーヒーとこんにゃくの醤油炒めという訳の分からない朝食をとりながら彼は呟く。私が寝ながら読んでいた“王妃の不倫”の文庫本を手にとって。「読んだの?」
 はい
 と素直に答える。なんで朝コーヒーだけなんですか?
 はじめて彼を家に泊めた時に私は聴かれたので、太るから、と答えたら、
「の、割りにはけっこうふっくらしてますよね。」
 とずかりと言われた。しかしけして嫌な感じではなかった。でもそこを指摘すると、そうなんす、と素直に頷いて、
「だから俺、男心が分からないって振られるんすよね。」
と悲しそうに言った。

「全部?」
「すいません。朝起きて暇だったもんで。」
 今日は直井くんも私も午後から勤務の日なのだ。
「おんなのひとは不幸だったけど子孫繁栄してメデタシメデタシって話でしょう。けっこうえぐいなあ。」
「読むの早くない?」
 幸いにして私は何度も再読しているところだったから、ネタバレされてケンカに成らなくて済む。
「今日の晩飯何がいいすか。」
 と直井くんが言った。
「赤魚のブイヤベース風。」
 私は答える。了解っす、と彼は真面目に答えた。そして
「牢屋の中で好きなやつのこと考えるのってどんな気分でしょうね。」
 とさらに真面目に言う。真面目にこんにゃくを食べながら。
「それは私たちがやっているのと同じことではないかな?」
 と私はいうのだ。そうですね、と直井くんは苦笑する。私たちは、雨の格子で閉ざされた牢屋の中で、思っても仕方のない人のことをいつも考えている。

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