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ハゴロモの森 14

「恥ずかしながら」
 仕方なくそう言った。
「じゃあ決まり。うちに来てください。帰りは車で送ってあげますから。」
 リンの車はカーステレオも付いていないようなぼろい軽自動車だった。
「前の仕事は何してたの」
 僕は安い合皮のシートに座りながら訊いた。後部座席には衣装ケースと大きなカバンが乗っていた。おそらく、あの狭いアパートに入りきらない分の荷物をここに置いているのだろう。リンのアパートには押入れがない。
「いろいろです。なるべく一つの仕事を長く続けないようにしているんです。私、あんまり仕事出来る方じゃないからどこに居ても優しくされないんですよ。だから、辞めたいって言ったらすぐに辞めさせてもらえるんです」
 行きますよ。とリンは言った。五十年ぶりくらいの息を吐いてエンジンが唸った。
「一つの仕事ずっと続けてた方が何かと便利じゃないのか」
 リンがアクセルを踏み込むと、車はがくん、と前につんのめる様にして、それからスムーズに動き出す。まるで車が一つ一つの動作にいちいちロックを掛けているみたいだ。
「面倒なんです。飽きちゃうんです」
「何に」
「仕事の内容にも。特に人間関係にも。日尾さんみたいなのもいるしね」
「僕みたいなのって」
「すぐ付き合おうって言い寄ってくる、中年」
「付き合うの」
 そうか、だから驚かなかったのか。と僕はやっと納得できた。そしてそのことに一向に思い至らなかった自分を、やはりバカだと思った。リンの容貌を見て、安直で単純な男だったら口説かない筈がない。
「付き合いません。そんな、人を軽く見ないで。日尾さんて本当に失礼な人ですよね」
「僕には簡単にオーケーしてくれたからてっきりそんな人だと思ったんだ」
 僕はまだまだ暗くならないフロントガラスを見ていた。これは映画のスクリーンなんだと思った。こういうストーリーが目の前に展開しているだけなんだと思っていた。リンは赤信号で止まった。
「あなたこそ。女の人と付き合う時はあんな風に言うんですか。昔の恥ずかしいこと教えてやろうかって」
「そんな話は。実際恥ずかしいことを知っている君にしか通用しない」
「本当に酷い人ですね」
 青信号になった。

 やっぱり来るんじゃなかったな。僕は思ったことを正直に言葉にした。
「不味い」
「本当に、もうちょっと他に言うことないんですか」
 リンは自分の分のどんぶりを抱えながらため息をついた。
「日尾さんもしかして女の子と付き合ったことないんですか」
 無いよ。と、言うとリンの思惑通りになってしまう。癪に障るから答えない。
「もうちょっと工夫しようと思わないの」
 リンが出してきたのは、くず肉を寄せ集めて揚げた模造肉のトンカツの、しかもできあいで冷めきったものに、溶き卵を浮かせた出汁を掛けたどんぶりだった。飯はさすがに温めなおしてあったが、カツは冷蔵庫から出したところで冷え切っていた。
「美味しいものを食べると哀しくなるじゃないですか」
 僕は黙っていた。そして、高野豆腐みたいなトンカツを食べた。美味しいものを食べると哀しくなるというリンの気持ちが分かったからだ。旨いものは人を哀しくさせる。
「美味しいものを食べると、この次はいつ食べられるかなって、哀しくなるじゃないですか。お金ないんだから。そんなにいつもいつも、美味しいもの食べられるわけじゃないんですから」
 工夫次第で金が無くても旨いものは作れるけどな。思ったけど言わない。そういうことじゃないんだ。僕たちは哀しくなるのだ。食事なんてそんなものだ。物を食べるのは哀しい行いだ。その分だけ生き延びてしまう。
 僕はもくもくとその不味いどんぶりを食べていた。インスタントの吸い物と、またしても胡瓜の乱切りが付いていた。ベランダの網戸は開け放してある。大分秋に近い風が入ってくるが、それはまだまだ生ぬるかった。
「今日は泊まっていくんでしょ」
 突然リンに言われて、
「いや、だってさっき送ってくれるって言ったじゃないか」
「女に送らせる気? つくづく情けない男の人なんですね、日尾さん」
 いちいちカンに障る女だな。でもかろうじて言い返す。
「僕はそんな風に女だとか男だとか、そういう言い方をするのは好きじゃない」
「結局話すり替えて逃げてるだけですよね」
 リンは追及してくる。自分の分の食事は終えてしまって、重ねた食器を流しに持って行って、また帰ってきて、それで僕を責めるんだ。
「だって、着替えも何も用意していないし」
 リンはため息をつきながら、
「いいじゃないですか一日くらいお風呂入らなくったって。なんだったら下着の替えくらいそのへんのコンビニで売ってますよ。私が出版社のバイトしてた時なんて、忙しいときは三日くらいお風呂入らなかったですよ」
「出版社? すごいな、安定した仕事じゃないか」
「ほらまたそうやって話題をすり替える」
 変だった。どうしてこんなに迫ってくるんだ。リンは明らかにいつもと違っていた。必死、ではないな。偏執、でもないな。しかし違和感がある。なぜか僕の事に拘ってくる。その拘り方がいつもとは違っていた。
 今日は昔のリンと全く別人だ。リンにはいつも余裕があった。違う空気を纏っていた。リンの周りだけ酸素の厚みが違うんだ。みんなとは違う時間の流れの中で息をしていた。だから誰もリンの近くには行けなかった。
 リンはそんな自分だけの聖域の中に容赦なく僕を引きずり込んだ。両手を広げて。さあいらっしゃい。ゆっくりとしていらっしゃい。そんな。豪奢な女主人みたいな余裕で。僕を散々な目に遭わせたのだ。 
 リンは揺るぎ無かった。誰も手出しできない。その揺るぎ無さゆえに誰からも嫌われていた。恐れられていた。そしてその中に包まれた僕もついでに恐れられた。
 そんなリンがいつもと違っていた。何か、焦っていた。どうしても僕に泊まって行けと言ってうるさいのだ。
「分かった。分かったよ。今日は泊まるよ」
「なんですか。せっかく女の方から泊まってもいいって言ってるのに、そのついでみたいな感じ。日尾さん、空気読めないって言われません?」
 僕は腹が立った。
「君も自分の言い方が勝手だって思わないのか。君の方から泊まれって言ってきたんじゃないか。だから泊まるって言ったのに、何か文句があるのかよ」
 リンは一瞬目を大きく開いて、そのせいで髪の毛がぞわっと毛羽立ったように見えたほどだ。でもすぐ止んだ。
「…付き合ってくれって言ったのはそっちでしょう。…なのに適当に扱われたら、傷つきます。」
 僕はお前を傷つけようとしているんだよ。あの時僕が傷ついたみたいに。
「じゃ、ちょっと必要なもの買いに行ってくる。」
 僕はトンカツの残りを掻きこむと、手を合わせてごちそうさまでした、と言った。そして鞄の中から財布だけ取り出してリンの横をすり抜けて行こうとした。
「どこに行くんです」
「だからコンビニ。君が言っただろう。必要なものならコンビニで買えるって」
「どこにあるのか分かるの」
 やはりリンはどこか必死だった。
「そんなもん歩いてればどこかにはあるだろう」
 そう言って僕はすっかり夜になった部屋の外に出て行った。

 リンが使った後に僕もシャワーを浴びた。ところどころにリンの入ったときの泡が飛び散って残っているユニットバスに。
 使った後をシャワーで流さないのだろうか。ユニットバスだからお湯が飛び散るといやなんだろうか。僕はすぐそこにある便器にさっきのくず肉を吐こうとした。でも、やはり吐き気が湧いてこない。今度もリンの料理は僕の体にすんなり収まっている。
 リンの部屋はものが少なかった。ベッドと、カラーボックスが一つと、小さな箪笥。それから姿見。化粧品がカラーボックスの上に乱雑に並んでいる。ものが少ないから目立たないだけで、こいつは部屋の整理とかもうまくないぞ、と僕は思った。
 これからリンとずっと一緒に居るんだとしたら、僕がいろいろと世話を焼いてやらないといけなそうだな。
 そんなことを考えて、僕はまたぞっとした。リンと一緒に? ずっといる積りで居るのか僕は。
 僕も一人暮らしは長い。学校に行くのをやめてから施設に入れられて、とりあえず大学卒業の学位なら取った。その後家を出て、障害者の支援者の人達にいろいろ助けてもらいながら、今日までやってきた。家事は身についているつもりだ。服をたたんだり食器を洗ったりするくらいは出来る。
 だが、リンが流しにいれっぱなしにしている食器のことは見ないようにした。勝手に洗ったりしたら今日の毛羽立っているリンの神経をまた刺激しそうだと思ったからだ。
 リンは髪の毛も濡れたままに、Tシャツとショートパンツに着替えていて、その姿でもうベッドに横たわっていた。
「髪の毛を乾かさないと」
 僕は促した。
「いいんです」
 眠そうな声で言った。この女は布団に入ればすぐに眠れる性質だな。カラスの濡れ羽色。その言葉がまた蘇って来る。
「三十なんだよな」
「女の年を確認するなんて、デリカシーが無いんですね二十九ですよ」
「同じことだろう。今年三十になるんだから。同い年なんだから。僕はもう三十だ」
「大きな違いです。私はまだ誕生日が来ていないし」
「何月」
「十月です」
 リンはうるさそうに言った。この女はいつだって人の言葉を跳ね除ける。さっきまであんなに止まって行けとしつこかったのに、泊まると言ったらこの有様だ。なんで僕は、こんな女に。


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