雨の国、王妃の不倫 6

 天から下る太い鎖の様に緩慢な雨に降り込められて、私は出たくない何処にも行きたくない。仕事にも買い物にもどんな用事にも行きたくない誰にも会いたくない何もしたくないなんにも食べたくない。持主が飽きてぐぶぐぶに爛れていく水槽の中の水草、世話をやかれなくなって静かに死の時を、まち、自分がゆっくり無くなっていくのを只立ち尽くしてみている。そんな気分。
 この朝の雨の中で私は布団の上に座り込み、びしゃびしゃなタマシイを体一個に拘泥して何もかも嫌になっていた。
 私は閉じ込められている。皮膚に、筋肉に血管に、肉体と言う概念に或いは頭がい骨の中に脳の神経細胞の中に、でなければ自分の思考そのものに、あるいはいっそタマシイに。
 私は閉じ込められている。いや違う誰だって閉じ込められている。自分は自分であると言う絶望的な現実に閉じ込められている、と言うかそこから脱却出来る人間がいるなんて想像もつかない。みんな、必ず捕らわれている、限界に、幻想に、或いはそれが現実か。
 頭の中を太い鎖が垂れてきいきい言っているような朝だ。ああまたこの朝が来た、と私は思う。

私が本来の自分に戻る朝だ。

 これが本来の自分なのだ。私がそれを知る朝だ。私はベッドの上でへたりこんでいて何をすることもできなかった、昨日一緒に働いた直井くんはこの雨の中また公園に戻っていった。いや、違うか、私の知らない彼の知りあいの所へか。恋人が出来たらそっちへ移る、でもなかなか出来ない。彼の言葉が甦ってくる。
 なかなか出来ないのは私の方だ。
 何をか、思いきることだ。
 こんなに、こんなにも。既にぐだぐだに腐りきっていると言うのに私の性根はまだ決心することが出来ないのだ。決心も何も結果は初めから決まっているのに。あの人は今日この雨の中でどんな一日の始まりを迎えるのだろう。

“親が譜代家だったから仕方なかったのよ。譜代家に女で生まれたらとりあえず成人を待って後宮に入らなくてはならなかったの”
 私は榮妃と会話していた。
「譜代家ってなに?」
“昔から皇帝に仕えていた家系のことよ。皇帝が皇帝じゃなくてただの家だった頃からの家臣のことよ。
王氏とか夏氏とか許氏とか班氏とかいろいろあったのだけどね。
私の皇帝のときにはばを聞かせていたのが王氏の太后と皇后だったわ。だから皇帝は皇后がきらいだったの。紫氏を皇貴妃なんかにするくらいにね。”
 幻の向こうから榮妃はくすくすと笑っていった。
「それってなにかおかしいの?」
“紫氏なんて譜代の中では格下も下の家なのよ。それが皇后の次の身位である皇貴妃の地位についたのだから、あの夫婦は本当に見ていると面白いくらい仲が悪かったわ。”
 と、榮妃はまたくすくすと笑った。仮にも自分の夫が他の女とも夫婦であるというのは、時代がそうだったとは言え、なかなか想像できないものだ。
“たまたま王氏の勢いを押し返したい連中の中にわたしの父が混じっていてね。皇帝に気に入られていたのよ。わたしの父が、ということじゃなくて、その、王氏に対立している一派がね。だから私は15歳で後宮入りしたんだけどその時の身位が貴人で、次の年には嬪に格上げになって、それから更に妃になったの。
 とんとんびょうしというやつね。でもそれだけだったけれど。後ろ盾がいるからってそう簡単には皇帝の気を引けないのよ。だから私は、ただ、入っただけ、という後宮入りだったわね。”

「それってものすごくつまらなくなかった?」
“つまらないわよ。だから早く家に帰りたかったの。皇后の逆鱗に触れたら身位剥奪で宮殿からほおり出されますからね。”
「貴方の好きだった人って、どんな人。」
私は聞いた。
“家司よ。”
「けいしってなに?」
“わたしが小さい頃からわたしの家で仕事をしていた男。家族の雑務を片付けるのが仕事の男だったわ。”
「ねえ。」
“なあに。”
「そんなものって最初からかなわないこいなんじゃないの?」
“そうね。そう言われてみれば最初からそうね。考えたこともなかったわ。”
「叶えばいいと思わないの?」
 私は声に出して聞いた。
“あなただって、別に叶わなくてもいいと思っている願いがあるじゃないの。わざわざわたしに聞かないでちょうだいな。”
 と榮妃は答えるのだった。

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