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雨の国、王妃の不倫 10

“なんとも、お申し開きすることは御座いません。”

と、榮妃は皇后と太后の糾弾にがんとして口を割らなかったのだそうだ。皇后はなんとしても榮妃の口から他の男と通じていると言わせたかったのだろう。文を押さえたとは言ってもただの散らしかきであることは確かだったのだから。でも榮妃はけして自分から何も言おうとはしなかった。蓮がなんなのか、けして言おうとはしなかったのである。
その事が決め手になっ、て結局は榮妃の首を締めた。


榮妃は何にも悪くないのに。榮妃は、ただ会いたい人が居たというだけで、国主である皇帝に背いた罪をきせられたのだった。私は榮妃の不幸な人世を思った。

「取り乱したりして、申し訳なかったっす。」
心身が疲弊仕切っていたらしい直井くんは食べるものを食べてしまうと一人で布団のある部屋に行き、ばったりと倒れた。
寝ちゃうつもりなんだろうと思って私は何も言わなかった。私の部屋は1LDKで玄関すぐにダイニングキッチンがあり、奥が六畳の洋室になっている。突きあたりの壁に添ってソファーベッドを置いていて、直井くんはいつもその下の床に、適当なブランケットを敷いただけで寝てしまうのだ。
だから私は寝ている直井くんを跨いで、自分が眠るソファーベッドまでたどりつかなくてはならない。ベッドの向う側には窓がある。窓からは雨の気配が闖入してきている。
サッシを叩いて、中に入れろと騒いでいる雨。
大丈夫、いまこの部屋の中には雨がしっかり降っているから、今更君たちが入ってくるまでもないから。

本当に最近雨ばかりだ。喜んでいる田んぼの苗の伸びる音が聞こえてきそう。
私は直井くんを邪魔しないように、そおっと部屋の鍵とこぜにいれを持って傘を手に部屋から出ていった。缶コーヒーを買おうと思って。
太りたくないから成るべく食べないことにしているのだ。私の主食はブラックコーヒーだ。
でも年々私は太っていく。逆らえない流れにサカラワナイデいるうちに、だんだんだんだん太っていった。傘を指すとあっという間に柵に覆われるみたいに雨がばたばた頭の上に落ちてきた。
私は盛大に足元を濡らしながら、榮妃と同じ時代に生きていたら私も牢に入れられただろうかと思案した。

否。
私はもう入っている、雨と言う理由で牢の中に入っている。私の雨は、涙の雨だ。この涙が私を捕らえてけして外に出そうとしない。私は雨の中を歩く。
私が願うもっと悪いこと、それはこの雨の中から出ていくことだ。雨の檻の外に出ていったら、今のような生活は必ず出来なくなる。

それが。
それがわかっていても。私はあなたのためにここから外に出ていきたいのです。久しぶりに夫の事を思い出したら思いがけずまなじりが濡れてしまった。


“冷宮に入ったときね、あ、わたしはここで死ぬんだわとすぐに解ったわ。”

榮妃は自分が牢に入れられた時の事を話していた。私は自分が牢に入った時の事を思い出していた。

“だってあんまりにもすることがないのですもの。
ご飯を食べる事くらいしか。そのおしょくじも一日に一回、水と残飯をもらうだけでね。まあ寝ているくらいが関の山だからあんまりおなかも空かないの。というかすぐにご飯をいただくのも忘れてしまったわ。だって私はここで死ぬと分かったのですから。冷宮は板張りでね。戸口も板戸でね。寝台がひとつあるきりなの。まども寝台の上に小さなものが一つだけあってね。
宦官が食事を運んでくるときだけ光が射したわ。
それ以外の時は真っ暗だったわ。
窓は本当に小さなものだったから。ろうそくだって来やしない。私はね、冷宮の中で、二年間くらい過ごしたと思うの。おみずを飲みながらね。ご飯も少しは食べたわ。何にもせずにね。
何もしないのは得意なのよ。考えていればいいだけの事なのですから。

私は考えていたわ。
ああ、このまま死んで行くんだわって。あの人は私のことをまだ覚えているかしらって。そんな事ばかり考えて、そうしてずっと過ごしていたわ。
二年間くらいね。そらからのことは、よく分からないのよ。考えているうちに死んでしまったのかしら。”

気がすむまで、行っておいで。
と言って彼は私を送り出した。
「哀しいよ。でもそれが君を待っていたらいけない理由にはならないならね。だから気がすむまで、いつまでだって、行っておいで。体には気を付けてね、連絡をくれるのを待っているよ。」
そう言って、私は夫から離れた、そして牢に入ってしまった。

私はあの人の事を考えてしまうから。どうしても、考えてしまうから、だからもう此所にはいられないわ。
私はそう、夫に言ったのだ、彼は哀しいと言った。そして、行っておいでと言った。
私が何処にも行く宛がないのを知っていたのだ。その時からずっと私が牢に入っている事を知っていたのだ。
(今住んでいる部屋の保証人には彼が成ってくれた。)

私は雨に打たれながら、あの人の事を考えても仕方ないと思っていた。あの人の中に中に私の居場所は恐らく無い。その事はよく分かっていた。私は愛されて生きてきたので、同じことをどうやって、人に対して行えばいいのか分からない。私はどうやったらあの人に愛されるのか分からない。そもそも自分がそれのぞんでいるのかどうかも分からない。あの人に愛されている私。どうしたって想像も付かない。

でも私はあの人の事を考えることを止める事が出来ない。
榮妃もきっとおなじだったろう。止むとなく、考えていたのだろう、ただ考えてしまうのだろう。

自分の中に居る人のことを。何故そこにその人が居るのか、分かりもしないのに。私はあの人を思って、夫を深く傷付けてしまった、彼は哀しいと言った。
私があの人のことを思うこと、それが、哀しいと言ったのだ。そのことで自分の夫をとても深く傷付けてしまった。だから私は牢の中に居るのだ。
雨が冴えざえと降り続ける、この牢の中に。

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