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ハゴロモの森 20

 辰川は不毛な上にも不毛は場所だった。少なくとも僕の人生の大部分において。リンとであった場所。僕とリンが生まれた場所。ここに生まれなければ、僕かリンのどちらかがこんなところに生まれたりなんかしなければ、今僕は。そして、リンも。
 僕は、どうしてこんな形でもう一度この場所に戻ってくることになったんだろう。何もない。何も残っていない。ひょっとすると、両親だってとっくにどこかに行って締まっている。
 名前を覚えている同級生も思い当たらない。そして彼らも、きっとここにはいないんだ。何故、僕はここにいるんだ。実際に体を持ってきてしまったというのに、ここまで来たと言うのに、その疑問は頭の中で息を吐き続けていて、そう、深夜包丁に映してみる自分の姿がそういっているように、口の中で臭い誰かが僕に言うんだ。

お前はこんなところに来ても何も変わらないんだぜ。いや、どこへいったって何も変わらないんだぜ。まったく無意味なことをしているんだぜ

そういうのだった。ああ、分かってるよ。分かってるよ。分かっているんだ!

 バスは恐ろしい山の中へと進んでいった。路線図を読んで、「辰川停留所」のある便に乗っただけで、そこがどんな場所かも確かめず、僕たちはバスに並んで座っていた。緑のシートのバスなのだった。リンはまた、僕の方に自分のマフラーを預けてきた。そして、なにも言わなかった。
 こっちでよかったのかな。一度僕は尋ねてみた。でも彼女は答えなかった。何も言いたくないんだろうな。そうだろうな、きっと。僕だって同じだ。辰川は不毛な場所だ。あまりにも不毛な思い出が、その辺のヤブガラシみたいにざわざわと絡みつく、残酷で、険悪で、嫌気ばかりが押し寄せてくる場所だった。

 バスに揺られていた。このバスが、もうどこにも止まらなければいい。僕はそう思った。リンと、いや、この期に及んでもこの女はリンではないかもしれない。どんなにあのころの匂う風を晒しても、リンの記憶がないというこの女。この女とバスに乗ったまま、どこまでも行ってしまえたらい。そう思っていた。

 なのに、あっと言う間に辰川停留所はやってきた。辰川、瀬尾神社前というのが正確な標識の名前だった。
「日尾さん、つきました。降りましょう」
 急に覚醒したリン、僕のことを知らないリンは動き出して、さっさとステップバスの運賃箱に切符とお金を入れて、振り向きもせずに出て行く。
僕は慌ててその後を追った。

「待てよ」
「待ちません」
「なんでだよ」
「意味ないでしょう」

 と、言ってバスを見送ると、二人でうっそうとした木立の中に立っていた。たちながら、僕はさあ、これから自分は一体どうなるんだ、と思っていた。僕は、今朝家を出たらもうどこへも戻らないつもりでいたのだ。

「日尾さん、この奥、道がありますよ」

 リンがのんびりと言うのだ。木と木の間を、臆せずに進んでいく。確かに、獣道と言うよりはもう少し人がとっていそうな通り道が森の奥へ奥へと熨されていた。でも僕には、誰かの悪意がこの道をどこまでも続くように、今、この瞬間に初めて作り出したように思えてならなかった。だが、苔の生えた石は確かにそこに落ちていた。

 二人で並んで歩けるくらいの道幅が合った。木漏れ日は明晰に世界に落ちていた。だが、森はあくまでも闇の一部だった。暗かった。僕の心が暗いのは、朝からずっと暗いのは、何も気分が悪かったからじゃない。森に帰ることが、僕の心をずっと暗くさせていたのだ。腐りかけの木の葉が落ちて作られた道。どこに続いているかも分からないそこを、リンと二人で歩いた。

 歩き続けると、急に周囲が一段沈んで、そこだけ丸く押しつぶしたように木の生えていない場所にたどり着いた。
「なんだここ」
 不思議な空間だった。苔がびっしりと生えて、木の葉は一枚も遊んでいない。ただ、緑の、さっきのバスのシートみたいな床が、そう、床みたいな地面が広がっていた。
「地下水の具合で昔ここだけ陥没したのかな」
「ねえ、私はいつまで記憶喪失ごっこをしていればいいの」

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