雨の国、王妃の不倫 2

「それは宿命よ。」
 と先生は言った。榮妃の話をしたときの事だ。宿命は運命と同じ使われ方をする言葉だけど本来は全く意味が異なる。と先生は言う。
「縁戚関係があるなら分かりやすいはなしですね。あなたの血液なり細胞なりに取り付いていた幽霊が読書という縁を鍵にして現実に浮き出したんでしょう。そういう物でしょう。あなたが生まれるずっと以前から脈々と運ばれていた決まり事なんでしょう。」
 と、言うことらしい。
 先生は宿命について、
 文字通り命に宿っているもの、運命については
 文字通り命を運ぶもの
 と教えてくれた。運命はあらかじめ決まっているものではなくて、その人が宿して生まれてきた命がどんな風に道を辿っていくのか、その道程のことなのだと言う。そしてその道行きは生きてみないと何とも言えないのだそうだ。
 そう教えてくれた。だから占いと言うのは生きたいと願うその人の命がどうにか思ったような道順を運べるように

インフラ整備をするのが本来の目的なのだ、と、言う。

 私は占い師の先生のアシスタントと言う仕事をしている。先生はちっとも有名ではないけれど、腕が良くて人の悩みをちゃちゃっと解決出来るので、儲かっている。だからスケジュール管理の助手くらい雇うのである。
 腕が良ければ占い師がみんなテレビに出る訳じゃない。質の良いものはなんだって見えづらいところに蔓延っているのだ。
 私は先生の書面鑑定の結果を送るための宛名書きをワープロでやったり、何日の何時にマンションに人が訪ねて来るのかカレンダーアプリに入れ込んだりする。そんな、誰にでもできる仕事をしている。誰にでもできる仕事だけど私が面接に行ったときに先生はすぐ
「あなたここで仕事しなさいね。」
 と言ったのだった。これが不定休の仕事で、私はもうひとつ登録制のバイトをして一人の生活を送っている。

“宮女がひとつだけ残して行った灯心の元で濁った鏡を見つめれば、
虚像の方が必ず現実であった。梅雪殿の夜は静かだった。気配が有るとすればさっきの宮女達が無言で落としていった悪意と侮蔑が香の固まりになって床をのたくっているのであり、また同じく自らの頬に彩られた紅が所在得ずして闇に惑い出ているのだった。
 榮妃は暇をもて余している。絶望的な鏡の中にはそこに有るときだけ形を成す空虚が惚けた主を宿していた。
 この鏡の中に有るのが実にわたしなのだ。
 と榮妃は巡らす。ここに、梅の木が植わっているから梅雪殿と呼ばれるこの房に入れられてから榮妃は全く魂を抜かれたような心地がしていて、

 触れるべき体も見るべき姿も失いただ、嘗てあったのだ、と言う残像だけが残り香として鏡の上にうつつを結んでいるようなのだった。後宮の夜は長い。つまぐる言葉も、語る綾もない榮妃の頭に上るのは、昨日と寸分違わず如何にして皇后と太后に嫌われようか、と言うそのことだった。”

 と言うわけで私は自分の体内から湧いて出た幽霊と、今心を供にしているわけなのである。ちょろちょろと降っていた雨は音もないままに降り続いて今音もなくやんでいこうとして居る。
 雨の国。
 雲の位置は低く今日も陽射しが私を照すことはないだろう。そして私の心には、いつでも小雨がしょぼついている。雨を心に生きている。私は雨をこの手に懐いて生きている。
「どうして皇后に嫌われたかったの?」

『うちに帰りたかったのよ。』

 と榮妃は答える。私が榮妃を題材にとった「王妃の不倫」という小説に興味を引かれたのは、単に遠い遠い親戚だからというだけでない。
 彼女が一人の女として送った生涯に、今私は心から、こころひかれる物があるからなのである。私は彼女に強く心を引かれている。榮妃は皇帝の訪れに遭って男の子を産んだんだけど、他に好きな男の居ることを悪質な妃嬪たちに露呈されて、拷問された挙げ句投獄された。冷宮と呼ばれる文字通りおぞけのする監獄の中で、ずっと一人の半生を過ごし最後は弱って餓死したのだそうだ。私はそんな彼女に強く心引かれたのだ。どうして、と。
 好きでいても仕方のない人のことをどうして死ぬまで思っていられたのか、と。私は榮妃に問いかけたのだ。
「ねえ死んでしまうまで、その人の事がずっとすきだったの?」
『ええそうよ。
変わること無くそうだったわ。』

 私は独り言に対して返事があったので飛び上がった。びっくりしたのである。しかし誰の姿も無い。もちろん榮妃の姿も無い。そもそも榮妃かどうかも分からなかったのに。だが榮妃は私の問いかけに答えた。
『わたしは死ぬその瞬間まで
あの家司のことが好きだったのよ。』
 その声は何て言ったら良いのかな。耳から入ってくるのではないのだ。口の中にあるようだったのだ。知らない人の声が自分の口の中に入っている。そして言葉の元はまるで私のお腹の中に在るよう。
「だれ?」
『さあだれでしょう。
あなたの目の前に居るようにも、
あなたとずっと一緒に居たようにもおもうのだけど。』
 その、お腹から響いてくる声を感じて私は
これは榮妃だ
 と思ったのだ。私も思ったから。榮妃は今活字の姿で私の目の前に居て、
そしておおばちゃんの縁として私ともずっと一緒に居たのだから。根拠に乏しいけど榮妃は間違いなくそこに居るので私としては榮妃の声を信じるより他に無いのである。幻聴とか、ではなくて。

『あなたは何故わたしにそんなことを尋ねるの?』
と榮妃が問い返してきて私は、
「貴方と同じ境遇なものだから。」
 と答えた。榮妃と心を伴にして、一週間になる。


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