ハゴロモの森 了
「別れよう」
言った瞬間、自分で自分の心臓の裏側に、包丁を突き立てたような気になった。表じゃなくて、裏側だ。僕は、いつだって卑怯だ。堂々と胸に刺すことができない。裏に回って、こそこそ動くしかできないのだ。仕方ないじゃないか。
ほら、こんなところでも、僕は仕方ない、なんて、何の意味も意図も備わらない言葉を。
すう、とリンを息を吐く気がして、ああ、この女はここで死ぬ。僕はそれを確信した。
「僕は、生きるよ」
だから僕はリンにそういったのだ。僕は生きる。一人になっても、どんなに情けない、やるせない、誰にも省みられない、無為な時間がこの先に長くその髪を伸ばしていても、それでも僕は生きる。
「だから別れよう」
でも、僕はリンの体を抱きしめたままだった。リンには何もかも伝わったはずだった。僕は、
「お前は死ね」
と言った。
「でも、お前は死なない。お前は死んでも妄執はこの世に残り、けして離れない。そうだよな?」
すう、と再びリンから空気がもれるような気がした。僕とリンは幸福なのだ。今が最高に幸福なのだ。だから、今以上のことも、今以下のことも考えられない。考えないために、僕はこれから、すべてを無かったことにするんだ。
僕たちは出会わなかった。同じ中学には行かなかった。同じ町には生まれなかった。同じ時間を生きなかった。どこに行っても、すれ違いもしなかった。そうだろう?
「お前なんてどこにも居ない。それでいいんだよな」
リンの体温が消えていくようだった。軽い香気みたいな。ハゴロモを失った天女は、どこにも行かずに土に埋もれたんだ、きっと。誰にもなれずに。そして、その上に草は生えたのだ。
「僕はお前を殺さない。僕もお前と一緒には死なない。僕は生きる。だから、別れよう」
リンが離れなかったので、僕は彼女の体を突き飛ばして、でもリンは思ったより強靭で、ゆらりと傾いだだけで倒れもしなかった。お前は、死ぬ。
「、」
僕たちの間に、横切らせていいものはもう何もなかった。でも僕の言葉はあふれて外に出そうになっていた。そうさせないために、僕は夢中で立ち上がり、土の上に投げたカバンを手にとって中を漁る。
売店で買った飴の袋が中った。片手でつかみ、口を使って切り裂いて、中の飴を口に放り込んだ。強烈な甘みと人間の匂いが僕の口を蹂躙した。
言うな。
僕は、自分に言い聞かせた。何も言うな。何も、言うな。僕はなおも座り込んでいるリンを置いて、もときた道を引き返す。なんていう時間が経ったんだろうか。森の中は、若い夜が絹地のような足をはびこらす。暗かった。でも僕は歩き出した。
「日尾」
僕は歩いた。荷物から財布を落としていないことを確認しながら、寒さで軽く汗をかいた背中を不愉快に思いながら。僕は、ゆるい坂を、木の葉が作った道を、僕をどこにも連れて行かない道を歩き出した。
「日尾」
僕は、先に進んだ。足元は悪かった。こんなところで転びたくなかったので、早足にはなれなかった。それでも、心から慎重に、急いで、先に進んだ。苔の下りた道に、点々とさがる血の痕をたどっていくように。
「日尾」
僕は、僕は駆け出すわけに行かなかった。振り向いて、振り向きたかった。でもそれだけはできない。
ヒオ、ヒオ、ヒオ、
だんだん風の音だかなんだか分からなくなっても、僕は森の中の道を歩き続けた。バス停は真っ暗で、時刻表は日焼けてそもそも読めやしない。
僕は道路を山すそに向かって降りていくことにする。今日中にはどこにも着かないかもしれない。でも、どこかには着くだろう。
桃の飴を、もうひとつ破って口に入れた。入れたとたん吐き出してしまった。
「リン!」
口をついて出たとたんに、僕は歩きながら叫びだしてしまった。わああああ。これはいつ、僕の中でいつ凍った涙だ。それが、やっと、やっとで溶け出しているんだ。
「リン」
リン、リン、リン。と僕は叫びながら涙が次々に流れて、そして僕は消えてなくなるんだ。そう考えていた。
でも、ダメだ。僕たちは、最初からダメだったんだ。同じ場所で同じ土になるわけには行かないんだ。だから、これから先どれだけ生きても、必ず、違うところで死のう。
「何でだよ!」
暗い道を歩きながら、僕は、いや、僕の中の僕の幽霊が、心臓の裏から突き刺すように喚いた。
何でだと。決まっているじゃないか。決まりきったことを、今更言ってなんになる。
「僕はお前が好きだったんだ」
でも僕の中亡霊は暴れ続けた。なんとしても道を引き返そうとするのを、僕は必死で抗った。
「僕はお前のことが好きなんだ」
とうとう歩いていられなくて、僕は地面に膝と、それから両手を突くと涙だけじゃなくて胃液を吐いてしまった。
お前のことが好きなんだ。これ以上一緒に居るなんて、耐えられない。朝からほとんど何も食べていないので、胃液は口を裂くようにして吐き出て行った。
リン、リン、頭の中で僕は呼び続けた。涙も、胃液もどくどくと吐きながら、僕はただ、呼び続けていた。
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